2009年11月27日
★Father And Son

僕は 子供の頃から親父が大キライだった
親父は 自己中心的で 自分の思ったとおりに
物事が進まない事を とても嫌った
僕の親父は中学校の教員で
とても厳しくて よくぶん殴られたものだ
殴られる理由には 僕が悪いこともあれば
そうではない事もあった
棒で殴られたり 廊下に3~4時間ほど正坐させられたりした
二階にいた姉が 僕が殴られる音が
二階まで聞こえてきて ヒヤヒヤしたと言っていた
厳しい人だから 嫌いだったわけではない
自分勝手で 他人が傷つこうと関係なく
自分が常に正しいと思っている
僕は 親父をとても憎んだ
高校になるとロック好きの僕は 髪を伸ばし始めた
親父はそれが気に入らなくて
みっともないから髪を切れと よく文句を言った
床屋の前まで 引きずられて行ったこともある
絶対に嫌だと抵抗し 髪を切らせなかった
高三になると 友人達と一晩中酒を飲むことが多くなった
僕は 自分自身を不良だと思ったことはない
つっぱりとかでもなく 変な学ランも着なかったし
ケンカに明け暮れていた訳でもない
ただのロック小僧だったし
沖縄では 本土と違って酒を飲む事が
安易に不良というイメージにはつながらなかった
小さい頃から 祭りごとや行事で
泡盛が 身近なものだったせいもある
卒業してしまうと 本土や沖縄本島にみな散らばってしまい
友人達とは なかなか会えなくなってしまう
残り少ない時間を ともに過ごしたかった
その為 何度か朝帰りをした
朝 家に帰ると 親父が台所の椅子に腰掛け
腕組みをして 待っていて
「お前は いったい自分の将来をどう考えているんだ
お前のような奴が 親が死んだ後すぐに
家を売り飛ばして 金にかえるんだ!」
そう言って 僕を殴った
親父の言葉に 僕は我慢ならなかった
「今日 あんたが俺に言ったことは一生忘れないからな!」
僕は そう言って首にぶら下がっていたネックレスを
引きちぎって 親父に投げつけた
その後 僕は沖縄本島でしばらく暮らし
それから 横浜に来た
たまに 実家に帰る事があっても
親父と同じ屋根の下にいることに
息がつまりそうで 我慢できず
2~3日ほどですぐに帰ってしまった
何年かに一度会うぐらいが
僕達の関係には丁度よかった
会う事があっても よそよそしく
まるで 他人同士のようで
親子の関係とは とても言えるものではなかった
三重県に住む姉が 電話で
「この前お父さんが泊まりに来たとき お酒飲みながら
ニヌファには厳しくしすぎたって言ってたよ」と言った
「酒の席での話だろ 俺にはどうでもいい事だよ」
僕は そう姉に答えた
琉美が生まれ 親父が琉美に会いに来た時
嫁は 親父と仲良くしゃべっていたのに
僕達は 相変わらず よそよそしかった
親父が琉美を抱き上げたり キスしたりした
初めて そんな風に接する親父の姿に
僕は 少々とまどった
僕が家にいた頃は 想像もできない姿だった
帰りがけ 玄関で親父が 靴を履く手を ふと止めると
「お前の 子供が見れるなんて思わなかった
琉美が・・・琉美が 孫の中で一番かわいい」
そう ぽつりと言ってくれた
2009年11月16日
★誕生日と幽霊

先日 友人の誕生日だった
この年齢になると 誕生ケーキに年齢の数だけ
ケーキにローソクを立てると
ケーキがキャンプファイヤーみたいになって燃え上がり
危うくボヤ騒動になるところだったと
もはや誕生日ではなく 何かの儀式のようだったと
神妙な声で話していた
誕生日プレゼントに木刀をもらうという 二次災害もあり
「誕生日っていったい何?」と自問自答し
自分探しの旅にインドでも行こうかと
考えている今日この頃らしい
僕のこれまでの誕生日の中で
もっとも最悪なプレゼントは
高校の時に友人がくれた山下達郎のカセットテープだった
カセットテープの中身は その友人が歌う
山下達郎のメドレーだった
何が悲しくてカセットテープで友人の歌う
山下達郎メドレーのオンステージを
自宅のステレオで聞かなければいけないのだろうか?
僕はその友人に何かしたのかと悩んだほどだ
誕生日とは本来ハッピーなものではなかったろうか?
なぜアンハッピーな思いをしなければいけないのだろう
その呪われたテープは違う友人の家に遊びに行った時
彼の何十本かあるカセットテープの中に紛れさせて
こっそり帰って来た
いつかその友人が 知らずにそのテープを
家のステレオで流すのを想像した時はハッピーだったが・・・
そう言えばカセットテープってノーマルとかハイポジとか
一番上がメタルテープなんてのもあった
たいした違いはないと思うのだが
メタルテープは少しズッシリしていて
何か高級感が漂っていた 懐かしい・・・
もはや死語の領域なのだろう
ちなみに例の呪われたテープはハイポジだった
ランク的にもかなり中途半端だった・・・
もう あんな誕生日は二度とごめんだ
中学生の頃 スケボーが流行った
スケボーの板も今と違ってクリアーな
プラスティックの赤とか青とか派手な奴だった
自宅近くに某公園があって そこの坂がかなりヤバかった
沖縄の太陽が暑すぎたせいか
もしくは ちんすこうの食べ過ぎからか
ある日 そのヤバい坂にチャレンジしようと思ってしまった
スケボー片手に坂の頂上に立つと
「俺の生きザマ見とけやー!」と
叫んだかどうかは定かではないが
スケボーに飛び乗り その坂を滑り降りたのだが
突然 一台の車が猛スピードで坂を上って来たのだ
14年の人生が 走馬灯のように頭の中を流れていった
そういう時は 周りがすべてスローモーションに見えるものだ
近づいてくる車のフロントガラスからは
僕に気付き 預金通帳を落としたオバちゃんみたいな
アンビリーバブル顔のドライバーが見えた
驚きのあまり 彼はハンドルを握ったまま
心肺停止状態だったのではないだろうか?
すんでの所で僕は スケボーを飛び降りて
そのままの勢いで 林の中に転がりこんだ
スケボーはその車の真下を通りぬけ
縁石にぶつかり 止まっていた
心配停止顔のドライバーの車もそのまま
猛スピードで走り去っていった
多分 彼は坂の途中で幽霊がスケボーで現れ
車を通り抜けていったと思った事だろう
それからその坂でスケボーに乗った
幽霊を見たという話しを
聞いたり 聞かなかったり
話したり 話さなかったりしている
ところで 誕生日にもらった最悪のプレゼントって何?
2009年11月12日
★すれ違いの出会い

宮城君と出会ったのは
僕がスポーツクラブでインストラクターをしていた頃だ
フロントから「オリエンテーションを2人お願いします」と
言われ ほどなくやって来たのが宮城君だった
話しを始めると なんだか日本語がたどたどしい
出身をたずねると ペルーだと答えた
それにしても たどたどしい日本語のイントネーションが
なんだか 懐かしい感じがしたので
さらに訊ねてみると 両親が沖縄人だという事が発覚した
「僕も ウチナンチューですよ」と言うと
「本当でしゅか?」とおかしな言葉とともに
宮城君の目がパッと輝いた
ペルー名の名前は難しくて覚えていないが
彼の印象は 30年くらい前の人間のような感じだった
素朴で優しくて なんだか昔会ったことがあるような
懐かしい記憶を思いおこしてしまいそうな感じになるのだ
彼の目は 僕と同じ沖縄人の目そのものだった
彼の両親が ペルーに渡った日はいつか知らないが
何十年も前に沖縄の人間が外国に行き
何十年前の沖縄人のままに暮らし
それを息子の宮城君が受け継いだのだろう
それからスポーツクラブのオーナーが多角経営に失敗し
順調だったクラブも閉鎖する事になり
僕は違う仕事を始め 彼と会う機会はなくなった
ところが2~3年に一度
偶然街で車ですれ違いざまに会うのだ
「ニヌファしゃ~ん」とおかしなアクセントで叫び
手をふって去って行く
そんな すれ違いの出会いが4~5回ほどあった
何カ月か前に嫁とベビーカーを押して歩いていると
突然車が目の前に止まり 彼が笑いながら降りてきた
スポーツクラブが閉鎖してから 初めて話をしたのだ
彼が日本人と結婚したことや 彼の仕事の事など
そしてお互いの携帯の番号を交換して別れた
スポーツクラブで初めて出会ってから
10年以上もたっていた
つい最近も 嫁と歩いていると後のほうから
「ニヌファしゃ~ん!!」と叫びながら
ハアハア息を切らせて走って来た
車で家に帰る途中に 僕らを見かけて
最近 沖縄に帰ったので お土産を渡そうと思い
急いで家に帰ると お土産を手に
走って追っかけてきてくれたのだ
「歩くの 早いね~」と息を切らせながら彼が言った
手には沖縄土産の スパムの缶詰が4個入った
クシャクシャのビニール袋を握っていた
たとえば沖縄人に「あなたの家に
ポークハムがありますか?」と
もしもあなたが尋ねたら 愚問だと嘲笑されるだろう
我が家も 昔で言うところの富山の薬箱並みに
もれなく スパムはストックしてある
「NO PORKHAM NO LIFE」だ
それでも 額に汗して一生懸命追いかけてきてくれた
彼の気持ちが うれしかった
そういうところが 宮城君なのだ
たいした出来事に 思われないかもしれないが
でも 普段そんなアナログな優しさに僕は出会わない
なんだか 久しぶりにいい気持ちになれた
出会いとは 不思議なものだ
同じ沖縄人であるという事だけで
10年に4~5回しか出会わず しかもすれ違いの一瞬だ
一度も飲みに言った事もなく
ましてや電話で話した事もない
なのに彼は僕を忘れず 声をかけてくれる
いい歳をして いつもこういう出会いや出来事に
あらためて 人の出会いの大切さを教えられる
どんなに時代が変わろうと
どんなにデジタルな世の中になろうと
大切なことは変わらないし 変わってはいけないと思う
今度 宮城君に電話して彼の嫁さんと一緒に
飲みたいと思っている
だって僕たちは 10年来の友人だからだ(笑)
2009年11月06日
★Double Rainbow

ハワイにはまった時期があり
10回以上もハワイに行ったことがある
嫁とは結婚前も結婚後も行った
毎回 行くのはオアフばかりだったが・・・
10日ほど休みをとって ハワイに行った時だ
ホノルルにあるリケリケドライブインという店で
サイミンを食べようという話になった
古くて家族か親戚でやっているようなドライブインだった
出てきたサイミンの味は お世辞にも
美味いとは言えない代物だった
レジのオバーちゃんの「マハロ(ありがとう)」の
言葉を背に店を出た
外は天気も良く 絶好の散歩日和だった
日本にいる時もそうなのだが
僕達は 無類の散歩好きだ
デジカメ片手に色んな建物や民家や
知らない店を発見したりして歩き回るのが好きだ
長い時は6時間以上も歩き回る
もちろん 途中発見した店で休みはするが
僕達は ハードウォーキングと呼んでいる(笑)
ニヌファが生きていた頃一緒に
その散歩に連れていった事があるのだが
あまりにも歩くので嫌になったのか
次回の散歩の時 拒否された(笑)
ハワイでも ハードウォーキングだった
ドライブインを出発して2時間ほど歩いただろうか
喉が渇いたので 何か飲み物を飲みたくなった
近くにジッピーズを発見し そこで休むことになった
ダイエットDrペッパーを僕が注文した
嫁がなんだか小腹がすいたと言って
メニューをじっと見ていたのだが
「ここにも サイミンあるよ 食べてみる?」と
チャレンジャーな発言をした
さっきまずいサイミンを食べたばかりだ
僕は何だか 気乗りがしなかった
出てきたサイミンを嫁が恐る恐る食べると
「美味しいよ!」といって僕にすすめた
一口食べてみると 確かに美味しい
さっきのサイミンとは別物だった
僕も サイミンを注文してしまった
サイミンを食べ終え コーヒーを飲んでいると
窓の外は 少し雨がぱらついてきた
店で流れる ハワイアンミュージックを聞きながら
ゆったりと 外をを眺めていると
なんだか無口になってしまう
言葉もいらない 心地よい気分だ
仕事や 他の悩みも気にしないで
ボンヤリと過ごすこの時間も 旅の贅沢なのだと思う
もっとも おしゃべりで陽気な僕の相方が
無口になる事なんかあり得ないのだが(笑)
ワイキキにあるワイラナコーヒーハウスという店も
ぼんやりするには いい店だ
ダサいユニフォームを着た店員のおばちゃん達がいて
料理も 特に美味しい訳ではないのだが
何十年も変わらない古臭い店内と
地元の人が多いゆったりとした雰囲気が好きだ
ジッピーズを出る頃には 雨は止んでいた
どうやら通り雨だったらしい
しばらく歩くとグランドで小学生達が
アメフトの練習をしていた
真っ青な芝生の上を コーチらしき男性に
声を掛けられながら 男の子達が走り回っていた
タックルされたり ボールを投げたり
泣いている子もいる
なんだか 映画のワンシーンを見ているような気分だった
嫁が 僕の肩に手をかけると
「見て!見て!」と言って後を指さした
青空に ダブルレインボーが架かっていた
ハワイでは ダブルレインボーを見ると
幸運になるという言い伝えがあるらしい
ガイドブックにもそう載ってたっけ
大騒ぎする 陽気な相方と一緒に
ダブルレインボーを見ていると
ダブルレインボーを見れる事が幸運ではなくて
誰と見るかが大事な事のような気がする
自分の大切だと思う人と見る事が出来れば
それは 近所で見る夕日でさえも幸せに感じる
その瞬間のその景色は もう
二度と見ることは出来ないからだ
言い伝えで言われる幸運の虹とは
本当は 物や景色などではなく
自分が大切だと思う人こそが
幸運の虹なのではないだろうか?
その人と見る景色なら どれも
素晴らしく感じられるのではないだろうか
ハワイの青い空に架かるダブルレインボーを見ていると
僕には そんな風に思えてならないのだ
2009年11月02日
★涙のBirthday

中学一年生の誕生日の日の事だ
オフクロと買い物に出かけた時
おふくろが ふと思い出したように
「そう言えば あんた今日誕生日だね
コロッケ買ってやろうか?」
「その日暮らしか! どんだけ貧乏だよ
しかも なんで誕生日にコロッケだよ」
「じゃ 4個買ったげるから・・・」
「個数の問題じゃないんだよ なんで誕生日に
コロッケなのかって聞いてるの?
しかも4個も食いたくないよ」
「メンチカツでもいいよ?」
「ALL お惣菜じゃねーか!
手作りのかけらもない 息子の誕生だっつーの!」
「じゃ サーターアンダーギーでも作る?」
「もう 子供の頃から 気がふれるほど食べてるから・・・
それに記念日関係なく 普段から作ってるでしょ?」
結局 唐揚げとコロッケを買うことになってしまった
大学生の時 友人にそのしょっぱい思い出を話すと
友人が 自分の誕生日にあった事を話してくれた
誕生日の日 母親とケンカしたらしいのだ
その後 学校に登校して
お昼に弁当のふたを開けると
中身は ご飯の上にスライスされたキュウリが
何枚かのっているだけだったらしい
「俺は コオロギが!」と思わずつぶやいてしまったらしい
その話を聞いていた もう一人の友人が話してくれたのだが
小学校のころ 誕生日の日
「今日は すき焼きと誕生日のケーキ用意してるから」と言われ
嬉しくなって 学校帰りに走って家まで帰ったらしいのだが
同じく すき焼きとケーキに胸躍らせた姉が
喜び勇んで自転車を飛ばし家に帰って来たらしいのだ
運命の悪戯なのか ただのアンラッキーなのか
家の前で 姉の自転車に弟が弾き飛ばされ
頭を家の塀にしたたかにぶつけてしまったらしい
その日は 様子見で病院で一夜を過ごしたらしいのだが
その夜 彼の家の少しボケ始めたおじいちゃんが
誕生ケーキを全部食べてしまったらしいのだ
友人達と全員で笑ってしまった
案外誕生日に最悪の思い出ってあるものだと話し
他に笑える 最悪の誕生日はないかとみんなに聞くと
友人の一人の女の子が
「私の家 貧乏だったから誕生日なんてした事なくて
小学校の頃の誕生日には
オバーちゃんが新聞紙で鶴を折ってくれた・・・」と
この飽食の時代にくさびを打ち込むような
超ブルーな話をした
ブルーを超えてエメラルドグリーンだ
今までの 盛り上がりも何処へやら
全員 しんみりしてしまった
コロッケもキュウリも自転車も全部飛んでしまった
新聞紙で鶴を折ってくれたって なに時代の話だ
「ホタルの墓」より泣ける話じゃねーか
それから 彼女は僕達の間では
「トークのカリスマ」と呼ばれるようになった
さて あなたの最悪だと思った誕生日は?
2009年10月28日
★旅の誘惑

以前 友人夫婦と台湾に旅行に行った
三泊四日の格安ツアーだった
台湾での宿泊ホテルは 「楽園飯店」という名のホテルだった
実際のところ 楽園とはほど遠く
かなり古いビジネスホテルといった感じだろうか
格安だし ホテルは寝に帰るだけという考えなので
特に気にもせず むしろその古いホテルの
おかしな欠点を探しては 僕達は楽しんだ
台北の街の 特に夜の街は活気があった
夜市と呼ばれる たくさんの屋台がならび
食事をしたり 買い物をしたりする人々で賑わっていた
僕達は あちこちの屋台をはしごしながら食べ歩いた
台湾の食べ物は安くておいしい物が多かった
ただ 臭豆腐と呼ばれる豆腐は
まるで養豚場に来たかと錯覚するほどの臭いで
その強烈な臭いに とても食べる気になれなかったのだが
今となっては 何でも挑戦すべきだったと後悔している
台湾の海を見に 淡水という場所に電車で向かった時だ
ガイドブックを広げて 友人達と話をしていると
「何かおこまりですか?」と流ちょうな日本語が聞こえてきた
20代くらいの 女性がニコニコ笑いながら
向かいの席から 声をかけてきた
「日本語 お上手ですね」と話すと
「私は 名古屋にいたことがあります」と女性が答えた
「そうなんですか 海老ふりゃ~の名古屋ですね?」そう僕が言うと
「残念ながら 名古屋で海老フライは食べませんでした」
そう 女性が笑いながら答えた
彼女は 親切に台湾のおススメや 食べ物を教えてくれた
電車が淡水に到着し お礼を言って別れたのだが
台湾は 彼女のような親切な人が多かった
九ふんと呼ばれる 階段が多い街に行った時も
写真を撮っている僕達に 知らない台湾の男性が
「こっちの方が 眺めがいいですよ」と案内してくれて
笑いながら さっさと行ってしまったり
地下鉄を出る時 改札機が何度切符を入れても開かなかった
後ろから来た3人の台湾の高校生くらいの男の子たちが
駅員の方を指さして 「駅員に切符みせたほうがいい」と
たぶん中国語で 言ったような気がしたので
日本語で 「オッケー 聞いてみるよ」と言って
駅員に切符を見せて「これ 通らないんだけど」と日本語で言うと
駅員が中国語で何か言ったのだが
「何言ってるか 分かんないな」と言うと
駅員が まいったなという顔で
通っていいぞとジェスチャーで出口を指さした
改札を抜けると さっきの高校生三人が心配そうに待っていてくれた
「ありがとう 大丈夫だったよ」と答えると 三人が笑顔になった
駅を出て別れる時も ずっと手を振っていてくれた
二日連続で朝食を食べに行った 豆乳と揚げパンの店の
日本語で「またおいで」と言って
笑顔で手を振ってくれた バーちゃん
街中で ガイドブックを広げると
道に迷ったのかと 何人もの人が声をかけてきてくれた
旅行に出て ホテルのプールで寝転んでカクテルを片手に
非日常を楽しむのも 旅の醍醐味の一つだろう
だが 地元の人とふれあい
地元の人が食べる食事を 地元の食堂で
地元の人の中で食べるのが 僕は好きだ
ホテルの中や有名レストランで過ごしていたら
台湾で経験したような 親切な人々に出会えなかっただろう
台湾は不思議な場所だ
初めて来て 初めて見る場所なのに
まるで 昔から知っていたような人々に出会う
横浜で 同じ日本人に囲まれ暮らしているのに
あれほど多くの 温かい人々には出会わない
東京や横浜では そういう気持ちを
ストレスの中に置き忘れてしまったのだろうか
旅の目的が 自分の支えになる杖を求めに行くのではない
他の国の文化や違う場所の人達と 人間的な出会いができればいい
言葉も違う人達と 朝すれ違いに「おはよう」と言える
利害関係や計算など無く ただの人間として接したい
そういう出会いがあればいいと思う
それが 僕の旅行の楽しみだ
台湾では そんな出会いが多かった
また台北の街の雑踏や 夜市の屋台や人々の活気
そして台湾のお茶が 恋しくなってきた
本屋で 台湾の旅行の本を立ち読みしながら
豆乳と揚げパンの店のバーちゃんの
笑顔を 僕は思いだしていた
2009年10月25日
★愛の洞窟

高校生の頃の話だ
ケンジ君という友人がいた
ケンジ君の家は商売をしていて
狭い島なので 商売の内容は言えないが
彼は家の商売をよく手伝っていた
ある日 ケンジ君が僕に相談があると言ってきた
「実は俺 Y子のこと好きなんだよ・・
ニヌファ Y子とは小学校の頃からの友達だろ?
なんとか 仲良くなれるチャンスはないか
力貸してくれないかな?・・・」
Y子とは小学校が一緒だった
背が小さく まじめで勉強がよくできる子だった
同じ高校になって 僕がよくY子と親しげに話しているのを
ケンジ君は よく見かけたらしいのだ
「別に かまわないよ」僕は即答した
ウインドサーフィンをやっている活動的なケンジ君が
学年一の真面目な子を好きになるなんて
僕は 意外な気がした
その後 みんなで海岸に遊びに行く計画があったので
ケンジ君の為にY子にも声を掛けた
その海岸には 洞窟があった
5分も歩けば すぐに出口に来てしまう短い洞窟だった
男女ペアでその洞窟に入ってみようと
高校生ならではの 浅はかな思い付きを実行した
枯れた木の枝にバイクのガソリンを染み込ませ
火をつけて それを明りにした
ひと組が終わると 次のペアが入るようにした
手を握って入る者もいれば 恥ずかしがるペアもいた
ケンジ君とY子を最後のペアにした
ケンジ君たちが 洞窟に入る時
たまたま懐中電灯が見つかったふりをして
それを 彼らにわたして洞窟に入ってもらう
そして洞窟の真ん中で電池が切れたふりをして
懐中電灯を消せば 真っ暗になり
Y子が怖がってケンジ君に抱きつくだろうとの
またまた高校生ならではの 子供じみた計画だった
ガソリンのせいなのか 燃えた木の枝のせいなのか
洞窟を出ると みんな鼻の穴が真っ黒だった
そしてケンジ君達に 計画どうり懐中電灯をわたした
洞窟の出口で 僕達は笑いながらしばらく待っていた
数分後 悲鳴が聞こえ 2人が洞窟から飛び出してきた
あちこち岩にぶつけ 傷だらけだった
ようやく落ちつたケンジ君に聞いたところ
しばらくはいい感じだったのだが
洞窟の真ん中あたりで明かりを消すと
Y子が悲鳴をあげて 飛びついてきたらしい
その拍子に懐中電灯を落としてしまい
真っ暗な中 Y子の悲鳴がこだまして
それを聞いているうちに だんだんと怖くなり
二人で真っ暗な中 岩にぶつかりながら
命からがら 出口へとたどり着いたらしいのだ
バカバカしい結果だった
その一件以来 ケンジ君とY子をくっつける作戦は
一時 休止状態になった
その後 Y子が入院したとのニュースを耳にした
Y子の友人に どこが悪いのか尋ねても
なんだか 全員フガフガして答えてくれない
頭にきて その友人の女の子をとっ捕まえて
強引に理由を聞いたところ
生理痛がひどいためとの事だった
そしてケンジ君も入院のニュースを聞いたらしく
病院に見舞いに行くと言い出した
僕は 一足先に病院に行くと
Y子に入院の理由を僕が知っていること
またケンジ君が これから見舞いに来る事を告げた
Y子は恥ずかしさに死にそうな顔だったので
「うちの ねーちゃんも生理でよく入院するんだよ」と
嘘を言って落ち着かせた
しばらくすると 花束とゴルゴ13の文庫本を5~6冊抱えた
ケンジ君が 神妙な顔で病室を訪ねてきた
入院してる しかも女の子になんでゴルゴ13なのか?
いかに暇つぶしに読む読み物とはいっても
入院患者に殺し屋のマンガは いかがなものか・・・
「大丈夫か? どこが悪いの?」とケンジ君が尋ねると
まるで 家族でテレビを見ていたら
ラブシーンがいきなり始まってしまい
理由もなく台所に行き 冷蔵庫の扉を開けたりするような
不自然な いたたまれなさな感じに
病室にいた女の子達がなったので
「勉強のやり過ぎで 過労なんだって」と
僕は 適当な事をケンジ君に行った
「Y子頭いいけど そんなに頑張ったら体に良くないよ」と
心配そうに ケンジ君がY子に言った
僕が 25~27歳ぐらいの時だったか 確かではないが
横浜にいる僕の所に 島にいる友人から連絡があった
ケンジ君とY子が結婚したとの話だった
そのとき 真っ先に高校時代の
あの洞窟での バカバカしい出来事を思い出した
僕は 思い出し笑いをしながら
「俺の計画も ずいぶん時間がたったけど
まんざらじゃなかったんだな」とつぶやいた。
2009年10月18日
★ 灯

僕は 一人暮らしが長かった
高校を卒業し 大学に通う頃から一人暮らしを始め
嫁と結婚する35~6歳まで一人暮らしだった
世間一般に 付き合った子も何人かいたが
一緒に暮らすことはなかった
一人暮らしの気楽さは それなりに楽しかった
縛られるものも無く 何時に帰ろうと
どこに泊ろうと 誰にも文句を言われない
なんの不自由もなく暮らしていた
今の嫁と出会ったのは 僕がスポーツクラブで
インストラクターをしていた時だ
嫁がフロントで入って来た
嫁の僕の最初の印象は最悪だったらしい(笑)
厳しいスポーツクラブだったので
入ってもすぐ辞める人間が多かったので
嫁もすぐ辞めるのだと思い
挨拶もそこそこにしたのが原因だったらしい
嫁と結婚した頃は 仕事も変わっていた
2人で暮らし始めた頃はケンカがたえなかった
自由気ままに暮らしてきた僕と
一人暮らしをしたことも無く
ずっと実家で暮らしてきた嫁では
色々 違いが多かったのだろう
2人での暮らしも慣れ ニヌファが我が家に来て
琉美も生まれ 家族が増えた
介護の仕事をしていた 僕は
仕事の疲れや ストレスで
時には へこんで帰ることも多かった
夜 疲れた体で家路につくとき感じるのは
多くの明かりが 灯されている家々には
同じ灯りのように見えるが
そこに住む者によって
違ってくると 思える事だ
帰りたくもない家で 冷たく感じる灯りや
彼女が待っていて 飛んで帰りたくなる灯り
家族が多く 騒がしくもにぎやかな灯り
高齢者の夫婦だけで暮らす 静かな灯り
多くの灯りの数だけ そこに暮らしがある
多くの家と同じように
我が家にも明かりが灯っている
あの灯りの中に 嫁とニヌファと琉美がいる
あの暖かな灯りは 僕の帰る場所だ
僕がいてもいなくても 世の中は気にもしないが
あの灯りの中には 僕の帰りを待ってくれている人がいる
僕でなければ いけないと思ってくれる人がいる
尻尾を振りながら 飛び出してくる
ニヌファはもういないが
「パパ お帰り!」と言ってくれる娘と
笑顔で 迎えてくれる嫁がいる
一人暮らしの頃に比べて 不自由だし
うるさいし 一人の時間なんかない
でも 家に着くと明かりが灯っていて
僕を待っていてくれる灯りがある
僕を必要としてくれる
僕の帰るべき唯一の灯りが
それは 家族と言う名の あの灯りだ
2009年10月13日
★炭酸少年

唐突ですがみなさん 最近発泡してますか?
発泡してますかー!(アントニオ猪木風に)
サイダーに愛された男 ニヌファです
サイダーが好きと言うよりも
サイダーの方から僕に近寄ってきますね ハイ
サイダーにはまったきっかけは
前に飲んだ炭酸少年というサイダーですね
炭酸少年というサイダーとの出会い
そして別れ 妊娠 流産 チベット自分探しの旅
UFOとの遭遇 執筆活動と出版
著書に「青春シュワシュワー」「吾輩はスパークリングである」
「世界の中心でサイダーと叫ぶ」「ノルウェーの炭酸」等がある
そして宗教法人「炭酸発泡の会」設立(300%妄想です)
さて 今回もサイダーについて語りたいと思います
最近は ゼロ流行りですね 貯金もゼロ
彼女もゼロ そしてサイダーのカロリーもゼロと
カロリーゼロが幅をきかせていますね
しかも最近のカロリーゼロは 昔のようにまずくないんですなー
三ツ矢サイダーについに出ました ゼロカロリー
三ツ矢サイダーと言えば王道中の王道 サイダー界の水戸黄門
そう言えば黄門様の印籠のマークも
三ツ矢サイダーのマークに似てるかも・・
あっ 似てない? あんた夢が無いねー
「夢にときめけ 明日にきらめけ」って
ルーキーズで先生言ってたでしょ?
話がけもの道に イヤ わき道にそれました
さすが三ツ矢サイダー ゼロカロリーもうまいねー
そういや三菱サイダーってのも昔ありましたね?
沖縄 九州地方に多かったのかな?
なんかエンジンの味がしそうなネーミングですが
缶を見ると「そういやー なんか見覚えがあるな
亡くなった ジーさんに似てるかも・・」と
覚えがある方もいるんではないでしょうか?
まだ販売しているらしいですよ
写真で見たい方はお手持ちのパソコンの
キーボードでチョイチョイと打ってみてください
そして ファンタのサイダーゼロ これね
正直 おじさん バカにしてましたよ
うかつだった 出先でクーラーつけっ放しなのを
思い出したくらい うかつだったよ
「うかつ」と書いたTシャツが欲しいよ しかも色違いで
あの「炭酸少年」を思いおこさせるテイスト
なつかし系で ラムネに近いテイスト
やるな やりやがったなファン太郎!
だてにモンゴルばっか帰ってないな!
そしてあろうことかスプライトにもゼロを発見!
軽い尿漏れをおこしてしまいましたね
誰かハルンケアかアテント持ってきてー
っーか もう手遅れ・・・
スプライトらしい爽やかなティスト 美味しゅうございました
復刻サイダー ご当地サイダーにウルトラマンサイダーと
みなさんも 趣味趣向があると思います
イヤイヤ おいらはこれが好き あたいはコレと
お気に入りなサイダーがあるのではないでしょうか?
三ツ矢サイダーゼロ ファンタサイダーゼロ
そしてスプライトゼロのダンゴ三兄弟ならぬ
サイダー三兄弟を冷蔵庫にフルラインナップさせて
毎回 違うテイストを味わいたいと思っています
ご当地サイダー飲み歩きの旅っーのもいいですねー
「チイ散歩」でやってくれないですかね
何? どのゼロサイダーも 飲んだ事無い?
あんた 死ぬよ・・・
2009年10月08日
★いちゃりば ちょーでー

高校生の頃だ
夏休みに沖縄本島に遊びに行くのに
普段は 飛行機でいくのだが
大型フェリーで 沖縄本島まで行こうと計画した
飛行機だと 宮古島から30~40分で到着できるのだが
船で行く方が なんだか楽しそうに感じたのだ
高校の頃なので料金は覚えていないのだが
夜出発して 朝7時頃の到着だと記憶している
友人達とバイトして旅費をためた
本島には 親戚も多いので泊る場所の心配はない
友人達と待ち合わせ 船に乗船した
全員 テンションが上がりっぱなしだった
船のチケットは 一番安い奴だったので
広い畳の部屋に 全員でざこ寝だった
夏休みということもあり
船はけっこう混んでいた
もともと 僕は船には弱かったので
船室なんかいたら 確実に船酔いしてしまう
仲間とカップヌードルを買って
夜空を見ながら 甲板で食べた
それから船の中を探検したりして遊んでいたのだが
疲れて 眠くなってきた
船室に戻ったのだが 混み合っており
寝れる場所が無かった
仕方なく 廊下で寝ることにしたのだが
すでに何人もの人が 廊下で横になっていた
適当な場所を見つけて 横になり
ウトウトしかけた時だ
廊下のむこうから悲鳴が聞こえ
数人が 僕達の方へ逃げだしてきた
僕の近くに走って来た 観光客と思しき女性に
どうしたのかと 理由を尋ねてみると
廊下で寝ていたら 牛が自分の上を
またいでいったらしいのだ
観光客の人達が キャーキャー言いながら
大笑いで 逃げ出してきた
つながれていた場所から 廊下に逃げ出したらしいのだ
幸い 牛はおとなしかった
船員のおじさんが 「お騒がせして すいません」
そう言って 牛をつれ戻した
ひと段落して 横になったのだが
なにぶん廊下なので 人通りが多く
なかなか寝つけなかった
壁にもたれて ウトウトしていると
ベッドのある船室のにーさんが
「にぃにぃは寝たから あんたが寝なさい
廊下じゃ なかなか寝れんはずサー」と言って
ベッドを譲ってくれた
お礼をいって ベッドに2時間ほど横になると
その後 友人に声をかけ
今度は 友人がそのベッドで横になった
船酔いしないために 夜の甲板をブラブラしていると
どこかのグループが輪になって酒盛りで盛り上がっていた
近くを通るとグループの一人が声をかけて来た
「にぃにぃ一緒に飲もうよ! 一人はつまらんサー」
少し船酔いが始まっていた僕は
酔ってしまえば 船酔いも分からなくなると思い
グループに加わることにした
グループだと思われた20人ほどの人達は
実は 元々4人の沖縄人のグループが飲んでいたのだが
通る人 通る人に声を掛け
じょじょに膨れ上がって 大人数になったらしい
「大阪から来ましたー 〇△□で~す」やら
「兵庫から来ました 〇×△で~す 女子大生で~す」やら
お酒とともに 自己紹介が始まった
「ニヌファです 高校生で
ウチナンチューで~す」そう言って
僕は 回って来た泡盛を飲みほした
「高校生 酒飲んだらあかんのちゃうの~?」と
一人が ひやかしで声をかけてきた
沖縄人の一人が立ち上がると もって回った言い方で
「え~ 沖縄では中学生からの飲酒が
法律で義務化されています!」と言った
全員大爆笑しながら酒を飲んだ
まったく面識もない人達が
旅の船上で 降るような星空の下
酒を酌み交わしながら 親交を深める
何の打算も無く お互いを尊重しあいながらも
見知らぬ同士が互いの肩を抱き 笑いながら語り合う
まさに 旅の醍醐味にも感じられるとともに
「いちゃりば 兄弟(ちょーでー)」という
沖縄の古いことわざを 僕は思い出した
「一度出会えば みな兄弟のようなもの
仲良くつきあいなさい」という意味だ
その後 友人達も合流して 朝まで飲み会は続いた
船酔いも どこかへすっ飛んでいた
夜が明けて 港が見え始めた頃
飲み会はお開きになった
「楽しかったわー またどこかで会おなー
沖縄サイコーやで!」
「ホントに楽しい思い出ができました ありがとうございます」
「みんなと別れるのが 悲しいなー」
みなで口々に別れをおしんだ
最後に 中心だった4人の沖縄人のにぃにぃ達と
握手をして別れた
荷物をまとめながら 船を降りると
船酔いなのか それとも酒に酔っているのか
足元がフラついた
船酔いは 克服できそうにもないが
船の旅も 悪くはないものだと
ターミナルに向かいながら 僕は思った
2009年10月06日
★ 風邪

最近 うかつにも風邪を引いてしまった
案外 もやしっ子だったようだ
嫁が 色々世話を焼いてくれるのだが
嫁は 沖縄の牧志の市場でも働けるぐらい
好意的に見れば明るい 悪く言えば 騒々しい嫁なのだ
横浜生まれだが 沖縄のオバーたちにも
沖縄人だと間違えられるくらい 明るい女だ
だから今回のように 僕が 風邪で具合が悪くても
本人のトーンは落ちないから
「何か 食べたいの?」
「いや・・ いい。」
「えっ 何て! なんて言った? 聞こえない 食べるの?」
「・・・・いらないよ。」
「いらない? 本当にいらないの? うどんでも作ろうか?」
「・・・いらないって。」
「カレーもあるよ。 カレーにする?」
「だから いらないって・・・・」
「聞こえない! 何て言ってるの?」
「風邪で・・喉が痛いから 大声で喋れないの・・
ほっといて 静かに 寝たいからさ!」
「寝たの?」
「殺す気かー!!(ダチョウクラブの竜ちゃん風に)
風邪で 具合が悪いから ほっとけー!!
俺は 静かに寝たいのー!!」
「琉美(りみ)ちゃん おとうさん
怒っちゃって 怖いねー 心配してやってるのにねー」
「・・・・のど飴あるよ 食べる?」
もう ダメだ・・ さらに具合が悪くなってきた・・・
先生モルヒネを・・モルヒネを打ってください・・・・
僕か嫁のどちらかに・・・・・
2009年09月29日
★沖縄オバー

鉄道の無い沖縄に ゆいレールが開通したのが
平成15年のことだった
沖縄県民の一人として 興奮のあまり
手にしたちんすこうを握りしめ
コナゴナにしてしまったのを覚えている
イヤ チョコちんすこうの方だったかな?
いや黒糖ちんすこうだっけか?・・・
まあそんな事はどうでもいいのだが
ひさしぶりに嫁と帰省した際
初めて ゆいレールに乗ったときの話だ
発車の合図とともにゆいレールが動き出し
二人ともワクワクしていると
突然 一人のオバーが運転席のガラスを
バンバン叩きながら
「停めてー 忘れ物したから停めなさいー!」と怒鳴り始めた
「しょうがねーなー 電車は止まらねーだろ!」と
嫁と笑いながら話していると
プシューとゆう音と共に ゆいレールが止まった
そしてゆっくりバックしてホームに戻ると
ドアが開き オバーが電車から降りると
ホームのベンチに忘れていたバッグを取り
「もういいよー 動かしてちょうだい
ありがとうねー」と運転手に平然と言った
ルートビアーの飲みすぎだろうか?
それとも夕べの民謡居酒屋で
海ぶどうを注文しなかったせいだろうか?
水戸黄門で忍者の格好をしているのに
ショーパブにしか見えない かげろうお銀こと
由美かおるのへなちょこチョップにやられて
顔をゆがめ倒れる悪役のように衝撃的な出来事だった
「止まっちゃったよ 電車・・ しかもちょっと戻ったよ・・」
まてまて ここは沖縄だ!
本土の常識は通用しない
落ち着け ドンマイ ドンマイ!
そしてまたもや ゆいレールに乗った時のことだが
発車の音とともに動き出した電車を
ホームからオバーが走りながら
「停まれー! 停まれー!」と叫んで
窓をバンバン叩いて電車を止め
なんで早くとめねーんだ このヤロー的な目で
運転手をジロッとにらみながら乗ってきた
チンピラじゃねーか!
確認の為再度言っておくが
止めたのはバスではない 電車だ
だいたいオバー達は 叩けば物事なんとかなると
思っているのだろうか? 育毛剤じゃないんだから
そういえば僕が高校の時の話だが
宮古島で オバーが一人でやっている
沖縄ソバの店で 昼飯を食べた時のことだ
ソバを注文してしばらく待っていると
オバーがソバを持ってきたのだが
よく見るとオバーの親指が
どんぶりの中のスープに入っていた
「オバー 指がソバの中に入ってるよ!」と僕が怒ると
「オバーは熱くないから 大丈夫さー」とサラッと答えた
そのショッキングな返答は スイカを切ろうと思い
包丁を持ってくるようにと 頼んだら何をどう勘違いしたのか
封筒を持ってきた 大学時代の友人の
小川君と同じくらい周りを凍りつかせた
本土で沖縄の友人と飲みながら
懐かしい沖縄の話で盛り上がった時
僕だけでなく皆が同じ経験をしていて 大爆笑となった
沖縄では常識の話しだった
オバーはソバに指を入れるというスタンスで
指をソバに入れるありきで
オバーを語らなければいけないのだ
これらのエピソードは決して
学校の怪談や UFOを見たとか
都市伝説の一つでもない
チョット飛行機で二時間弱飛べば
そのオバー達がウヨウヨいる場所へと行く事ができる
肝試しがしたい!または
友人のサプライズパーティーを企画している
自分探しの旅は土日だけで
平日は働こうと思っているなど
大都会の常識の枠の中で
暮らすことに疲れたあなた
沖縄オバートゥワイライトゾーンの旅に
出かけてみてはいかがだろうか?
2009年09月28日
★ 旅立ち

高校を卒業した時の事を覚えているだろうか?
僕の高校の卒業式は 後輩の子達がメリケン粉や生卵を
祝いに卒業生にぶつける風習があった
いつでも立派な天ぷらになれそうだった
頭も学生服も真っ白になって
友人達と写真屋に直行して
みんなで 記念写真を撮った
僕の高校では卒業式のその夜に
「分散会」という名のパーティーを開く
その夜は スーツや着物などの正装をして飲み会に行く
朝まで続く卒業パーティーだ
ただ 高三の三学期の段階で
飲み会の回数は 以上に多くなっている
二日に一回ぐらいのペースで 何らかの飲み会がある
朝まで飲んで 学校に向かうのだが
学校の近くに泡盛工場があって その側を通ると
泡盛の匂いに 二日酔いの僕らは
軽い吐き気をもようした
実際 吐いてる友人もいた
女性だった為 妊娠疑惑が出たらしい
分散会の時は クラス50人分のお酒を飲んだ
その後も飲み会は続いたので
いったいどれ位飲んだのかよく覚えていない
2万ガロンくらい飲んだのかもしれない
2次会 3次会 4次会 もはや何次会なのかも分からない
分散会の後は 本土に行く者 沖縄本島に行く者
色々な 場所へと旅立っていくのだが
誰かが旅立つときは 空港までみんなで見送りに行った
何度 空港に行ったかわからない
自分が旅立つ時まで 空港に誰かの見送りに行った
飛行機に乗る前にガッツポーズをする者
泣きながら抱き合う者 色々だった
別れの日が近づいてきた ある日
友人達5人と夜の海岸に行き そこで飲み会をした
月明かりの中 砂浜に腰をおろし みんなで酒を飲んだ
くだらない笑い話 好きな女の子の事 この島を出て行くこと
そして この先待っている未来への期待と不安など色々話した
酔っ払って海岸で寝てしまい 朝日で目を覚ました
みんなで 黙って海から上がってくる朝日を眺めた
輝く波間の彼方から 朝の光が ゆっくりとこぼれ落ちてくる
この瞬間はもう二度と来ないとお互い知っていた
それは 旅立ちの前の静けさだ
呼吸をする事さえ 切なく そして苦しい
すべての音が無くなり 永遠とも思える静寂
島が僕達へ送ってくれた旅立ちへのエールかもしれない
その帰り道 だれも口をきかなかった
互いの家に向かう分かれ道で
僕達は 互いに握手をして「それじゃ」と言って分かれた
それが最後になった奴もいれば
その後 何度か会う奴もいた
あれから ずいぶん時が流れた
故郷を離れた者もいれば 戻った者もいる
今 僕は故郷とは遠く離れた土地で朝日を見ている
僕も色々あった 結婚して 子供もできた
あの時の友人達が 今どうしているのか
みんな どんな人生を送ったのだろうか
思い描いたようなベストな人生ではないけれど
それなりに 幸せを感じることもある
「おい 俺は頑張ってるぞ みんなも頑張れよ」と
ぼそっと つぶやいてみる
あの時 みんなで見たあの景色が
モノクロームの写真のように
今も心に焼きついている
2009年09月24日
★11月1日の午後

その日の午後は よく晴れたいい天気だった
11月とはいえ 日が当たると暖かい
僕たちはニヌファの亡骸を車に乗せ
ペット用の火葬場へと運んだ
火葬場の炉は 焼く動物のサイズで
4種類ほどの大きさがあり
小型 中型 大型 超大型に分かれている
「バーニーズですと超大型ということになりますから
費用の方は5万円になります」と
火葬場の 年配の男性が言った
鉄製の台車の上に遺体が置かれ
台車ごとレールで火葬炉に
入っていく仕組みになっていた
台車の上にニヌファが乗せられ
「最後のお別れをしてください」と
その男性が僕たちに言った
静かに横たわるニヌファを抱きしめると
いつもと同じ ニヌファの美しい毛並みが
柔らかく指先をすべっていく
ニヌファを子犬の頃から世話してきた
ニヌファのシッポの先から頭のてっぺんまで
すべて僕は知っている
鼻の付け根の変な匂いのする場所や
足の形 爪のはえ方 お腹のふくらみや
場所によって違う毛のカールのしかたや
天気のいい日の お日様の匂いのする肉球
全部 この体の事は知っている
ニヌファの好きな食べ物も
ニヌファのくせも お気に入りの場所や
寝ぼけて吠えた事だって知っている
そしてニヌファが僕たちの元に帰るため
手術や注射にも耐え
病気と必死に戦ってきたことも
彼が 僕達の事をどれほど愛していたかも
全部 全部 僕は知っている
「よく頑張ったな さすが二ーちゃんだ
お前は 昔から頑張り屋だった
お前はパパとママの自慢だったよ
もしも 生まれ変われる事が出来たなら
今度も またうちの子においで
必ず 必ず パパとママの所に来るんだぞ
その時は 病気なんかしない丈夫な体でおいで
また あの落ち葉がいっぱいの公園に
いっしょに散歩にいこうな
疲れたろニヌファ ゆっくりおやすみ」
ニヌファをなでながら僕はそう言った
嫁が 声にならない声で
ニヌファに抱きつき 泣いていた
台車を動かすスイッチに指をかけ
「では最後のお見送りをしてください」と
火葬場の男性が言った
スイッチが入り台車がゆっくりと動き出し
炉の中へと入って行った
炉の扉が閉まるとゴーッという音とともに火が入り
ニヌファの体が焼かれていく
僕達は手を合わせ 茫然とそれを眺めていた
「大体 1時間ほどかかりますので
待合室の方でお待ちください」そう言われ
待合室へと案内された
待合室では 僕達の他に一組の家族が待っていた
あくびをしたり 笑って話をしているのが
僕には たまらなく嫌だった
我慢できずに僕は外に出た
時計を見ると 時刻は午後4時を回っていた
少し肌寒いが 火葬場の周りは静かだった
まだ 最後まで痛みに吠え続けた
ニヌファの声が耳を離れない
「パパ!ママ! 痛いよ 痛いよ!」
そう叫んでいるように 僕には聞こえた
なのに僕は 何もしてやれなかった
今朝 目を覚ました時は
こんな一日になるとは思いもしなかった
ニヌファのことを心配した
姉から携帯に連絡があった
ニヌファが亡くなった事を話し
電話ごしに2人 大泣きした
1時間がたち 小さな骨壷に入った
ニヌファの遺灰が手渡された
月並みな感想なのだが
あの大きなニヌファの体が
こんなにも軽く こんなにも小さな壺に
入ってしまうのかと 本当にそう思う
もう 二度とニヌファの事をなでてやることは出来ない
家に帰るとすぐに ニヌファに使っていた
塗り薬や飲み薬 包帯や消毒液全部を
ゴミ箱に投げ捨ててやった
ニヌファが一番見たくない物だったからだ
そして 火葬場の辛気臭い壺も捨て
自分達で買ったガラスの壺に
ニヌファの遺灰を入れ替えて
いつもニヌファの首にぶら下がっていた
ニヌファの名前と僕達の住所と
電話番号の書かれたペンダントを
壺のふたに巻きつけた
ニヌファのいない家は
まるで見知らぬ誰かの家に来たようで
なんだか居心地が悪かった
今日は本当に疲れた
長い 長い一日だった
ニヌファの遺灰の入った壺を手に
「二ーちゃん退院おめでとう そして お帰り」
僕はそう 声をかけた
2008年の11月1日の午後とは
そんな日だった
2009年09月22日
★Are You Happy?

昔 ビル管理の仕事をしていたことがある
その会社は何でも屋的な会社だったので
アパートの夜逃げや
一人暮らしで亡くなった人の部屋の
荷物を片づける仕事もよくあった
その日むかった現場は
70年代のフォークの歌詞に出てくるような
〇〇荘という名の古い木造のアパートだった
玄関を開け 靴を脱いで階段を上り
廊下をはさんで3室づつある部屋の
奥の右側の部屋だった
狭い部屋の中には 驚くほど荷物が少なかった
スーツと タンスの二つの引き出しに衣類が少し
30年ほど前のドライヤーに 目覚まし時計
ちゃぶ台と同じ高さの 木製の古いテーブルが一つ
部屋の住人は年寄りで
病院で亡くなったと社長が教えてくれた
部屋の荷物を処分していると
木製のテーブルの引き出しの中から
何枚かの写真が出てきた
色々な場所で写された仕事現場での写真で
彼が季節労働者なのだと想像できた
三枚の古い白黒の写真には 東北地方の農家のような
古い家の縁側の前で 家族で撮った写真と
妹とおぼしきセーラー服姿の女の子の写真
こういう現場は 初めてではない
とても口に出せない現場も 僕は見てきた
でも その40~50年ほど前だと思われる
古いモノクロの写真に写った
はにかんだ笑顔の 可憐で素朴な
セーラー服姿の少女の写真から感じられる
写真を撮った人間と 少女の間に流れる
愛情にあふれた空気感に 僕は胸を打たれた
ネジ式の鍵のついた部屋の窓を開け
風にあたりながら外を眺めていると
なんだか悲しくなってしまった
どうして彼は故郷に帰れなかったのだろう?
写真の妹らしき彼女は どうなったのだろうか?
いったい彼にどんな理由があったのだろうか?
大事に何十年も持ち続けた 古い写真を残し
故郷を遠く離れた見知らぬ街で
一人 孤独に死んでいく
この窓から見える風景を 彼も毎日見ていたのだろう
人の幸せとは どういう事なのだろうか?
「自分が幸せだと思えば 幸せなんだよ」と言う人もいる
その通りのような気もするが 違う気もする
本当は幸せとは 思うものではなく
感じるものではないだろうか?
趣味に没頭している時に 幸せだと感じる人や
なにかうまい物を食べている時に 幸せだと感じる人
病気で あと何カ月も生きられないと言われ
残り少ない日々を 数えながらも
人生は愛おしく 生きている毎日に幸福を感じる人
状況や 暮らしによって 幸せだと感じる事も多様だろう
でも幸せになりたいと願うのは 誰でも同じだ
誰もがみんな 幸せになりたいと願っている
誰もが それを求めているのに
幸せになれる方法なんて 誰にも分からない
亡くなった この部屋の住人は
ひとすじの風となって 故郷に帰ったのだろうか?
故郷の山や畑を吹き抜けて
あの写真に写った家の庭先の
木々の葉を揺らせているだろうか?
空っぽになった部屋のドアを閉める時
僕は そう思わずにはいられなかった
2009年09月21日
★山手のぴんから兄弟

以前 ビル管理の仕事をしていた
アパートの共用スペース(階段や入口 廊下など)を
清掃するというのも仕事の一つだった
横浜は山手に○○ハイムというアパートがあった
その日もアパートの廊下を掃除していると
物音を聞きつけて住人が出てきた
歳の頃は 60~70歳くらいだろうか
昔の水商売の人がよく着る
派手なシャツを着たジーさんが出てきた
ポマードでオールバックにびっちし 頭をかためていた
「おう! にいちゃん掃除か?ご苦労さん!」
と声をかけてきた
ぴんから兄弟そっくりのジーさんだった
若い方には ぴんから兄弟といっても分からないだろうが
むかしそんな演歌歌手がいたのだが
だいたい「ぴんから」自体どうゆう意味なのか
僕自身も さっぱりわからない・・・
ただ確実に言えるのは
うさんくさい度300%だという事だ
それから たびたび掃除に行くたびに出てきては
立ち話をするようになった
「最近 となりの奴がよー 入口にゴミ置きやがって
汚ねーんだよ 何度も言ってんのによー
今度 会ったら ぶっ殺してやるからよー」やら
一階の奥に住んでる インド人が帰ってきたとき
「インドのにーちゃん カレー好きか?
日本のカレーもうまいぞ! これもってけよ」と言って
レトルトのククレカレーを渡しているのを目撃したりした
ある時 ぴんから兄弟が お出かけの時に出くわした
サーモンピンクのダブルのスーツに 派手なシャツ
キャノーラ油を シャワー代りにかぶったかのような
ギトギトしたオールバックに
なんかどっかで嗅いだ事があるのだが
いまいち どこで嗅いだのか思い出せない
芳香剤のような香水の香りがした
「おっ 兄貴 お出かけですか?」と声をかけると
「おう ちょいと 野暮用でよ!」と言って
後ろもふりむかず 片手をあげると
肩を揺らせながら 去って行った
絶滅危惧種の天然記念物のような
昭和レトロな ジーさんが
なんだか 愛すべき人間のような気がしてくる
おかしなスゥイングで肩を揺らせ
去っていく後姿を眺めながら
僕はホウキを片手に そう思わずにはいられなかった
あるとき 廊下を掃除していると
若いアメリカ人の宣教師が2人
ぴんから兄弟の部屋のチャイムを鳴らした
「あーぁ あの二人 どんな奴が住んでいるのかも
知らずにやって来ちゃったよ・・・」
いったいどんな大騒ぎになるのかと
ヒヤヒヤして見ていると
ドアが開き ぴんから兄弟が出てくると
「おう よく来たな~ 道迷わなかったかー
入れ 入れ!」と言って二人を招き入れた
演歌が流れる 部屋の中に入っていく
アメリカ人の宣教師達を 呆然と眺めながら
ぴんから兄弟と宣教師の接点が
いったいどこにあったのか?
また ぴんから兄弟と宣教師の組み合わせという
まったく 異素材な組み合わせに
ホステスと忍者 いや 用心棒と未亡人か?
それとも ガリガリ君とウエストポーチだろうか?
などと遠い世界に行ってしまいそうな
考えに襲われつつも
ぴんから兄弟のミステリアスな暮らしに
昭和あなどるべからずと
思い知らされるのであった。
2009年09月19日
★ 犬の心

ニヌファが亡くなってから11ヵ月がたった
先日 ニヌファが使っていたケージを
錆びてきた事もあって 捨てることにした
大型犬が使っていたので結構な大きさのケージだ
粗大ゴミのシールを張り 指定された場所に置いた
「あいつ 怒るかな?」僕がそう言うと
嫁が ポロポロ泣きだした
僕達は ニヌファが亡くなってから
一日たりとも ニヌファの事を考えない日はなかった
昨年の暮 12月31日の事だ
その日は 嫁の親戚と大晦日を過ごすことになり
なんだかんだで 約束に間に合わなくなりそうで
自宅で急いで出かける準備をしている時だ
なんだか 焦げ臭い臭いがしたのだ
実は 何日かまえから 焦げ臭い臭いがしていたのだが
原因が さっぱり分からなかった
その日も なんだか気になって
家中を探し回ったが 原因が分からない
「テレビが ショートしてんのかな?」
テレビを動かして 裏を覗きこんだが何もなかった
ふと テレビの裏側の床を見ると
そこに ニヌファの毛玉が落ちていた
「ニーちゃんの毛だ!」嫁がそう叫んで 毛玉を拾いあげた
遅刻しそうな事も忘れ 2人で涙ぐんでいる時だ
かすかに バチバチ バチバチという音が聞こえた
音の方に 耳を澄ませながら近づくと
ウォーターサーバーのコンセントが
バチバチと音をたてて半分溶け 火花をちらしていた
ニヌファの毛を見つけていなければ
そのまま出かけ 大晦日に家はまる焼けだったろう
「ニーちゃんが 教えてくれたんだよ」嫁が言った
「あいつ天国で オバー!火事になっちゃう どうしよう!
なんて言ってバタバタ走り回って 慌てたろうな」
そう言うと 僕達はその姿が目に浮かぶようで
2人で ふきだしてしまった
実際のところ ニヌファは亡くなってから
どんなに思っても夢にも 出てこなかった
ずいぶんたってから一度だけ 嫁の夢に出てきた
その日も 深夜ニヌファの事を思い
泣きながら嫁が寝たところ 夢に出てきたらしい
足もとに くっついている感覚が生々しく残っていたと
嫁が 嬉しそうに言っていた
ニヌファは やさしい子だったので
嫁を心配して 夢に出てきてくれたのだろう
娘の琉美は 初めて喋った言葉が「ワンワン」だった
まだ 喋れないのだが 単語をポツリと言う事がある
嫁が琉美を抱いている時の事だ
「琉美ちゃん ニーちゃんはどこ?」と嫁が冗談半分で聞くと
琉美が ニヌファの遺灰を指さした
二人して 絶句してしまった
その後 何度か聞いたのだが 結果は同じだった
僕が夜勤で 自宅にいないときの話だが
朝方 嫁が目を覚ますと 寝ていたはずの琉美が
布団の上に ちょこんと座っていて
僕の布団の枕の横を指さし「ワンワン」と言ったらしいのだ
その場所は僕が寝た時 必ずニヌファ来る場所だった
またある時 僕が夜パソコンを見ていると
琉美がやって来て「ワンワン」と言って ある場所を指さした
そこは ニヌファのお気に入りの場所だった
彼女はやみくもに どこかを指さしている訳ではない
それに 彼女はまだ一歳五か月だ
ニヌファを記憶しているかどうかも わからない
「お前には ニーちゃんが見えるんだな」
そう言って 僕は彼女を抱き上げた
何かの偶然なのか 違うものなのか
はっきりとした事は 僕には言えないが
でもニヌファが 僕達に会いに来てくれていると信じたい
いや そうだと信じている
そして 娘にはその姿が見えるのだと
「オバーの血を ひいてるからね
琉美も 特別な力があるのかもよ」そう言って 嫁が笑った
これは 僕の経験から言うのだが 犬にも心がある
優しくて ひたむきで 迷いのない愛情に溢れた心が
その大切さを 無償の愛を 力強さを 絆を 命を
周りの誰でもない 犬であるニヌファに教えてもらった
よく飼っている動物を 家族の一員だと言うが
そんな簡単な言葉で彼を 言いあらわす事はできない
たとえ恋人や夫婦でさえも入ることの出来ない
心の奥底に入ってくることができた 唯一の存在
それが ニヌファだったからだ。
2009年09月18日
★ステーキハウスの夜は明けて

僕は沖縄の伊良部島という所で生まれた
小学生まで伊良部島で 中学で隣の宮古島に移った
その後沖縄本島で一人暮らしをはじめ
それから大学に行く話がもちあがり横浜に移り住んだ
伊良部島のときから ジュンちゃんという幼なじみがいた
ジュンちゃんは僕の引越しで中学時代会えなくなるのだが
高校でまた一緒になった
高校の時、ジュンちゃんは不良と呼ばれる生徒の一人で
授業中先生と喧嘩して 教室を飛び出していく事がよくあり
そのたびに先生が僕に ジュンちゃんを連れてくるように頼んだ
そんなジュンちゃんが 沖縄で一人暮らしをしていた頃尋ねてきた
「俺 今オカマバーで働いてるんだ!」
唐突にそう告げた後 僕の驚愕の顔に慌てて
「違う違う!オカマじゃないよ バーテンで働いているんだ」と言って笑った
これは その時ジュンちゃんが話してくれたことなのだが
お店が終わる朝方 よくそのオカマバーのママだかパパだかが
ジュンちゃんやオカマのホステスさんやら連れて
ご飯を食べに連れてってくれたらしい
その日は「お肉 食べたくな~いぃぃん! 」と言う
やはりママだかパパだかの一声で
ステーキハウスに行く事になった
沖縄ではステーキハウスが平気で朝までやってたりるするのだ
人もまばらな明け方のステーキハウスで
そのオカマ軍団はテーブルを陣取ると
「ママー あたし300グラムのステーキが食べた~いの~ん!」
と食欲も欲望も旺盛なところを見せた
料理を食べながらワイワイ盛り上がっていたとき
ママだかパパだかがフォークを
テーブルから落してしまった
「すいませ~ん フォークぅ~落しちゃった~
新しいのちょ~だ~いぃん!」
と厨房にむかって叫んだ
人間朝まで働くのは疲れるものだ
しかももうすぐ仕事が終わるというのに
オカマがテーブルで「いや~ん」やら「いけず~ぅ」やらで盛り上がっていると
イライラしてしまうのだろう
厨房のオヤジが店員に「オカマがフォーク持ってこいってよ」と言ったのだが
どっこい厨房はやけに声が響くのと 予想外にオヤジの声が大きかった事もあり
オカマ軍団の耳に届いてしまった
「チョッとー! オカマの何が悪いのよー! ジョーダンじゃないわよ!えー!」
とママだかパパだかが 切れ始めた
厨房のオヤジも疲れとイライラで「うるせーよ このオカマ野郎!」と
なかばやけくそで怒鳴り返し 両者の間をスプーンやら皿やらが飛び交った
元男対現男のワールドワイドな戦いが勃発した
オカマバーのママも 完全にパパになっていた
この凄惨を極める戦いの真っ只中 爆心地グランドゼロにジュンちゃんはいた
いつもお世話になってるママだかパパだかの手前 爆笑するわけにもいかず
かといって朝方のステーキハウスでのオカマと
料理人の対決はあまりにも面白すぎる
ジュンちゃんはうつむいて 自分の太ももをつねり
必死で笑いをこらえ 涙を流しながら耐えたらしいのだ
その後ママだかパパだかも ジュンちゃんの涙に
「あたし達 オカマのために泣いてくれた!」 という
勘違いな美談で幕をとじたらしい
「これ その時つねってたとこ すげーアザになってるだろ?」
そう言ってズボンをめくると
ニヤニヤしながらジュンちゃんが
その名誉のアザをぼくに見せてくれた
2009年09月17日
★小川君

小川君という友人がいる
大学の頃に知り合った
お坊ちゃまだったが パンクスだった
「二十歳になったら俺は死ぬ!」と
パンクスの合言葉のようなセリフをよく言っていた
メシを食おうと 店に入ったとき 店内はガラガラだった
「閑古鳥が鳴いてるなー」と友人がつぶやくと
「えっ どこ どこ?」と店内をキョロキョロ探し始める
そんな かなり残念な友人の一人だった
友人の家で スイカをみんなで食べようとした時
「包丁持ってきて」と小川君に言うと
どう聞き違えたのか 封筒を持ってきた
全員 再起動が必要なくらいフリーズしていた
そんな小川君に 彼女ができたとの事で
みんなが 冷やかし半分で 「どこまでいってるの?」
と笑いながら エロエロ感たっぷりに聞くと
「昨日は 高島屋の屋上にフルーツ食べに行った」と答えた
聞いたみんなに 悲壮感すら漂っていた
「小川に 聞いた俺たちがバカだった」みたいな・・・
昔 小川君と高校が一緒だったという奴に
友人が偶然出会ったらしいのだが
その彼からこんなエピソードを聞いた
高校の音楽のテストで 世界で有名な作曲家の名前を
3人書きなさいという 問題だったらしいのだが
テストが終わって 別の授業を受けていると
突然教室に 音楽の先生が飛び込んできた
「おい小川! お前これどういう事だ!
有名な作曲家の名前を書けって問題に
なんで 平尾 昌晃って書いてあるんだ!!
普通 ベートーベンとか モーツアルトだろ!」
と怒鳴られ 職員室に連れて行かれたらしい
その後 小川君にその友人が聞いたところ
「親父が 平尾 昌晃のファンだったから」と答え
なぜ 怒られたのか分からない
平尾 昌晃だって曲作っているのにと答えたらしい
義務教育以前の問題点が 小川君にはあったのだ
そんな小川君は 二十歳を過ぎたが死ななかった
死ぬどころか その後結婚して子供もいるらしい
彼の父親ぶりは想像するだけで 手の震が止まらない
僕がバーテンなら カクテルつくり放題だ
でも チョッと見てみたい気がする
子守唄はやはり カナダからの手紙だろうか?
2009年09月16日
★愛情の過程

「犬とか飼いたいけど 死ぬと悲しいから飼えないわ」
以外にこういう事を言う人は多い
ニヌファが亡くなってからも言われた事がある
沈み込んでいる僕に「だから 飼いたくないの」という女性がいた
「ペットロスとかになりたくないしね」と
別にその女性に 怒りは感じなかった
ただ 悲しい人だとは思った
愛する人が亡くなったら悲しいから
人を愛さないと思うのだろうか?
たとえば 子供が事故で亡くなったら
子供なんかつくらなければ良かったと思うだろうか?
傷つく事が嫌だから 悲しむのが嫌だから
誰ともかかわり合いたくないと思うだろうか
誰かを愛したことによって
悲しんだり傷ついたりすることがある
だが 誰も愛さずに孤独に空っぽに
人の痛みも悲しみも知らず ただ一人で生きていくことに
生きている意味があるのだろうか?
たとえ亡くなったとしても 思い出しては泣いたり笑ったりして
その思い出は その人間の大事な一部となって共に生きる
結果だけを見て 物事を判断する人間は僕は嫌いだ
もちろん結果が大事な事があるのも事実だ
でも どうやって出会って どんな風に共に生きてきたのか
お互いがどんな存在だったのか そしてどれほど愛していたか
亡くなってしまうという 最悪の結果にしろ
その過程は とても愛おしく そしてとても重要なことだ
その過程に 笑いや喜びや悲しみがあって
その積み重ねの上に 表札のようについているのが結果だ
結果だけなら 生きたか死んだかしか書いていない
実体のない ただの紙切れのような物だ
その過程の 日々の積み重ねがあって初めてそれは意味をなすのだ
名前も 同じようなことが言える
子供の名前を付ける時 僕は字画とかなんとかは気にしなかった
親の気持も分からないではないが
字画で幸せになれるなら 全員幸せだ
僕が大事だと思うのは そこにどんな意味を持たせたのか
どんな願をもたせ どれほど愛情を注いだかだ
それによって名前は意味をなしてくる
ただの字から 実体のある感情のあるものになってくる
その名前を名乗る者が亡くなったとしても
その名前を口にする時 悲しみや愛おしさや
多くの感情の入り混じった 特別な物となって
名前は 存在し続ける
ニヌファは僕たち夫婦を照らし出してくれる存在になって欲しい
そう願いをこめて つけた名前だ
実際 彼はそうなってくれた
ニヌファという言葉を口にする時
僕達は特別な まるで何かの呪文のように感じられる
それは とても大事な呪文だ
今は悲しみが多いが それでも
思い出を消すことができて 悲しみを消すことが出来たとしても
そんなの 絶対にゴメンだ
ニヌファと共に生きた2年3か月は絶対に忘れない
それは 僕とともに生き続け
そして 僕の一部だからだ