2010年05月21日
★娘とニヌファの関係

5月18日に嫁と嫁の母親と娘と僕とで
ディズニーランドに出かけることになった
ディズニーランドがテレビに出るたびに
歓声を上げていた娘の為に連れていった
僕はミッキーにそんなに興味はない
ただ娘の為にと連れていったのだが
自分達だけで遊びに行った時より楽しかった
乗れる乗り物も限られてくるのだが
そんなに急ぐことも無く
娘の気に入ったスモールワールドも2回も乗った
彼女の好きなパレードも見れたし
ミッキーと写真も撮る事ができた
娘は2歳7ヶ月だ 嫁の血なのか
かなりのおしゃべりだと思う
彼女が僕達に見えない物を見る事は
以前にも記事に書いたのだが それなりに続いているのだ
彼女が1歳5ヶ月の時 宮古島に帰省した事がある
ある海岸で 彼女を砂浜に下ろすと
突然大泣きしてしまった事があった
オフクロにその事を話すと
なんて事ない顔で「なにか見えたかもしれんねー
海はたくさんいるからねー」と言った
それからだ 娘が何か見えるのではと
僕達が思い始めたのは
亡くなったニヌファを見るのはあたりまえ
彼女が知ってるはずのない事も言いだしたり
つい先日も 宮古島をテレビでやっているときだ
「あそこ おにーーちゃんが行っちゃダメって言ったよ」
そう言って娘が指差した画面には
以前 大泣きした海岸が写っていた
ニヌファが何か悪い物があって
琉美に近づかないように言ったと言うのだ
あの時は 琉美も1歳5ヶ月だったので
いったい何で泣いているのかも知らなかったのだが
この前は バスに乗ってある交差点に差し掛かった時
「車が バーンってぶつかったの」と言いだした
その交差点は事故が多い場所だ
ただ 娘は事故なんて見た事も無いし
交通事故の概念もまだ分からない歳だ
その手の話しは 言いだすと沢山出てくるのだが
嫁が「二ーちゃん 琉美の事守ってくれてるんだね」
嫁が 嬉しそうに言った
何も見えない僕らには ハッキリとした事は言えないが
ニヌファが側にいてくれる事
また 娘を守ろうとしてくれている事は
本当に 嬉しい事だ
出かけようと娘と靴を履いて玄関で立ちあがると
だれも居ない部屋にむかって娘が
「おにーちゃん 行ってくるね!」
そう言って嬉しそうに手を振った
2010年05月09日
★最後のプレゼント

ゴールデンウィークは僕には関係なかったが
連休中に偶然休みがあった
嫁とべビーカーに2歳の娘を乗せて
散歩がてらコストコに行くことにした
ベビーカーに乗ってすぐに娘は寝てしまった
どういう話のきっかけかは覚えていないが
嫁と亡くなったニヌファの話しになった
お座りする時 立っている僕らの靴の上に座る事
強い風が嫌いな事 そしてニヌファの
黒を通り越して漆黒と言った方が
ぴったりの美しい毛並みの事
街を歩くとみんながニヌファの事を振り返り
「すごく綺麗なワンちゃんですね」言われた事など
しんみりとして話していると
寝ていた娘が目を覚まし
嫁と僕に向かって「おにーちゃんがいたよ」と
眠い目をこすりながら言った
ニヌファの事を娘はおにーちゃんと呼んでいる
彼女には驚かされる事が多い
誰が教えた訳でもないのに
自分の食べているお菓子や食事を
「おにーちゃんも どうぞ!」と言って
ニヌファの遺灰の側に置く
ニヌファが僕達と一緒に居てくれているという
確信を娘がいつも教えてくれる
僕達がニヌファの事を思い 寂しがる時
泣く時 笑う時 ニヌファはいつも側にいてくれる
僕には娘のようにニヌファを見る事は出来ないが
彼女がニヌファの姿を見る事が出来るのは
僕達には とても嬉しい事だ
いまでもニヌファの匂いや 抱きしめた時の感触
毛並み 嬉しそうに振り返る顔を覚えている
病気で何ヶ月もステロイドを飲んでいたニヌファは
苦しい思いをずーっと耐えてきてくれた
亡くなる少し前の事だ
具合が良くて一ヶ月ほど
ステロイドを止めた事がある
ずっと表にも出たがらなかったニヌファが
散歩に行く意思表示をした
ニヌファの事を考え 涼しい夜に出かけることにした
夜だと 病気で変わり果てたニヌファの姿に
「ワンちゃん 病気ですか?」と
いちいち聞かれずにもすむからだ
今にして思えば あの何度かの散歩は
自分の命が果てる事を知っていたニヌファが
僕達にくれた最後のプレゼントだった
リードを外し ニヌファの好きなように歩かせた
ニヌファは何度も何度も嬉しそうに振り返っては
僕達に笑顔を見せてくれた
ずっと病気で寝込んでいた事がウソのようだった
嫁も僕も彼の病気が治るのではないかと
一瞬そんな夢まで見たものだ
ニヌファが亡くなって1年7ヶ月がたつ
僕はまだ 犬を飼う気持ちにはなれない
誤解のないように言っておくが
もう犬を飼うのはゴメンだと思った事は無い
犬は今でも大好きだし
娘にも犬と暮す幸せを知ってもらいたい
ただ うまく言葉に出来ないが
もうしばらくは ニヌファの事を思っていたい
彼の事は一生 思い続けるだろうが
きっと いつか僕の気持ちの中で
また犬と暮したいという気持ちが
湧き上がってくるだろう
きっと そんな日が来ると思う
それまでは もう少し
ニヌファとの思い出を 抱きしめていたい
2010年04月29日
★ 島っ子

1965年に僕は沖縄の小さな島に生まれた
東京や横浜に生まれた同じ年の
僕の友人達と比べても まるで違う子供時代だった
僕の年齢の10歳~20歳上の話のようだと
よく言われたものだった
駄菓子も売ってはいたが
今の子供ほど自由には買えなかった
腹が減れば 自分達で山や海で探しに行った
野イチゴを食べたり 海でカニや魚を取ったりした
島では家に鍵を掛ける風習などなかった
ほぼ顔見知りだったからだ
貧しいながら お互い助け合って暮らしていた
最新のオモチャも裕福な暮らしも無く
無い物の方が多かった時代だったが
僕達には 楽しい少年時代だった
小学校の頃だ 授業中にドカーンという音が聞こえた
何事かと みんなでざわめいた
その後 何度か聞こえたが やがて静かになった
それから しばらくして
クラスのM君が先生に呼ばれ
カバンを手に急いで家に帰っていった
後で聞いた話だと M君の父親が
禁止されていたダイナマイトを使った漁をしたらしい
ダイナマイトを海に投げ込むと
爆発のショックで 魚が浮いてくるのだが
それを何度かしているうちに
投げ込もうと手にしたダイナマイトが爆発し
バラバラになって死んでしまったらしいのだ
葬式に父親と出かけた僕が 目にしたものは
大泣きしながら棺桶にしがみつくM君の母親と
葬式の席で茫然と 大人達の中に立ちすくむみ
まだ父親の死を受け入れられないでいるM君の姿だった
その晩 M君と話をする機会はなかった
貧しい島で 家族の大黒柱を亡くすという事は
大変な苦労が M君の母親の肩にのしかかるという事だ
M君が学校に登校してきた時
「M君のお父さんが 亡くなりました
M君が困った事があったら みなさんで助けてあげて下さい」
授業の前に 先生がクラスのみんなに言った
「M君大変だろうけど お母さんを助けてあげてね」
先生の言葉にM君が肩を震わせて泣きだした
先生も教壇で泣いていた
島の人達が M君の家のために寄付を募り
集まったお金を M君の母親に渡したらしい
M君の母親は かつおぶし工場で働き始めた
その姿を 僕も何度か目にした事がある
お腹が減れば かつぶし工場に行けば
できたてのなまりぶしをくれたし
当時 僕が飼っていた愛犬が
なまりぶしを かっぱらったりしていたからだ
その後 僕は中学で別の島に引っ越したのだが
高校生の時に M君に偶然会った事がある
水産高校に入学したとの事だった
頭もあまりよくない自分が稼げる仕事は
遠洋漁業の漁師ぐらいしかなく
苦労して育ててくれた母親に楽をさせたいからと
M君が照れた顔で言った M君は本当に立派だった
卒業後 彼が遠洋漁業の船に乗ったと
友人達から聞いた
貧乏で何もない貧しい島に生まれた事を
僕は 一度も恥じた事は無い
むしろ そういう時代と場所に
生まれた事を感謝している
僕達島っ子は 太陽と海と島と
そこに暮らす人々の情けに育てられた
本当の意味で豊かな少年時代だった
今の時代のように 物に溢れた裕福な時代ではないが
少なくとも 互いを思いやる心に溢れていた
僕の少年時代はそんな時代だった
2010年04月16日
★心のかけら

1965年5月28日に僕は生まれた
沖縄の宮古島から少し離れた島だった
僕は小学生までそこで暮らし
中学校から宮古島に引っ越した
今の子供たちのように 物に溢れた暮らしではなかった
どちらかと言うと ない物のほうが多かった
コンビニも携帯電話もなく
便利という言葉とは程遠い時代だ
毎日 海や山で走り回り
遊びも自分達で工夫して遊んだ
信じられないだろうが 楽しい時代だった
小学6年生の頃だ 友達5人と
テレビ塔かアンテナ塔なのかよく知らないが
サトウキビ畑の中に立つ塔まで遊びに行った
テレビ塔まで行ったからといって何が面白いのか
今ならありえない話だが 子供の好奇心のみで
みんなでワイワイいいながら向かった
喉が渇くと サトウキビ畑からサトウキビを
勝手に折って かじりながら歩いた
テレビ塔は 入口を鎖でふさがれただけで
入るのは容易かった
僕達は はしごのような急な階段を
頂上めざして登り始めた
テレビ塔の高さは よくは覚えていないのだが
15~20階くらいの高さだったろうか
とにかく子供の僕らの足がすくむほど高かった
みな怖かったと思うのだが
臆病者だと言われたくなくて
誰一人 やめようとは言いださなかった
頂上には円状の場所があり そこが唯一の
階段から降りられる場所だった
それなりに広かったのだが
5センチほどの間隔で鉄板が張ってあって
その隙間から 下が見えるのだ
最初は怖かったのだが しばらくそこにいると
結構 慣れてしまった
その塔からの眺めは素晴らしかった
周りに広がるサトウキビ畑やその先の海や
周りの島までも見る事が出来た
5人で鉄柵の間から足をぶらぶらさせながら座り
風に吹かれ 遠くを眺めた
ちっぽけな島だったが 僕達の世界全てだった
小学校を卒業したら宮古島に引っ越す事を
僕は 友人達に告げた
みな驚き 残念がってくれた
話が途切れ しばらく黙っていたが
「お前の所に 必ず遊びに行くから」と
友人達が そう言って励ましてくれた
僕が 照れ笑いをしていると
強い風に 僕が履いていたゾーリの片方が
吹き飛ばされ サトウキビ畑の海の中に消えていった
降りたら すぐに探せるだろうと思っていたが
見つける事が出来ず 僕は片足はだしのまま
みんなと 歩いて帰った
それから 僕は宮古島に引っ越した
友人達も しばらくは遊びに来てくれたが
だんだん会わなくなってしまった
その友人達の一人と 同じ高校で再開するのだが(笑)
あの日の強い日差しと 風と テレビ塔と
サトウキビの青臭い甘さを 今でも覚えている
そして あの塔の上から飛ばされた僕のゾーリは
どこに行ってしまったのかと思う事がある
あれは今でもサトウキビ畑の中に
ポツンと落ちているのだろうか
それともあのゾーリは
大人になっていく僕が 失くしてしまった
少年の心の かけらなのだろうか
2010年04月07日
★続 昼休みのひと時

前回「昼休みのひと時」という題で記事を書いた
仕事場の 聞き違いをよくする女性の話だ
彼女は言い間違えもとても多い
ただ 言い間違えた事にまったく気づいていないのだ
「ニヌファさん ニヌファさん 聞いてくださいよ~
あの人に会いたいって番組けっこう見るじゃないですかー」
僕は この若い女の子に多い同意を求めるしゃべりの
なになにじゃないですか~というしゃべりが大嫌いなのだ
全員そうですよね?みたいな決めつけたしゃべりが
かなりカチンとくるのだ いやカチンを通り越してコチンだ
「いや みんな見るかどうか知らないな」
「またまた~ 意地悪言わないでくださいよ~
ああゆう番組って~ 本人思いっきり顔だしてるのに
本名じゃない名前で (仮病)って出てるけど
あれ意味あるんですかね~(笑)」
「それって・・・ 仮病じゃなくて仮名じゃねーか?」
だいたい出てる奴が仮病かどうかなんて関係ねーだろ・・・
そいつの状態は 番組に重要じゃねーし
あの人に会いたいって番組だろ?
仮病って・・誰をだます必要性があるんだよ・・・
「ニヌファさん ニヌファさん 聞いてくださいよ~」
「前々から思ってたけど お前は人の名前を呼ぶとき
必ず二回繰り返すな 俺 特に耳に障害もってないからな」
「あっはははは~っ もうニヌファさ~ん」
え~っと なんか殴れる鈍器のような物でも落ちてないかな・・・
「こないだ 栃木のイチゴで ちとおとめって食べたんですよ~」
こいつ要介護5だな 絶対そうだ
確信犯的 アルツハイマーに違いない
それ ちとおとめじゃなくて とちおとめだろ・・・
なんだよ ちょっと乙女って・・・ニューハーフか・・・
「こないだ~ 私の友達が~ メンソーレのタバコ吸ってたんですけど~」
メンソールね メンソールのタバコだよね?
めんそーれのタバコって そいつどんだけ沖縄好きだよ
しかも いらっしゃいって意味じゃねーか
沖縄人の俺としては ちょっと面白かったけどさ・・・
めんそーれのタバコって 沖縄県内で販売するように
沖縄県に訴えかけるところだったじゃねーか コノヤロー
よく彼女が今まで まともに社会生活を送ってこれたものだ
何回か 殴られていてもおかしくはないはずだ
いや 殴られたからこそ 今の状態なのだ
もとい なぐられたからこそ 今の状態じゃないですか~なのだ
2010年03月31日
★昼休みのひと時

先日 仕事の同僚の女性と昼食をとっている時のことだ
仕事の話をしていて「~って言うか まあ信頼の証かな。」
そう言ったとたん 聞いていた彼女の顔が
お店でペペロンチーノを注文し
一口 食べたところで店員に
「お下げします」と言われて いきなり料理を下げられた時と
同じくらいキョトン顔になった
何を言っているのか分からない
そんなポカーン顔をした
「ニヌファさん・・・ 死んだ犬の証ってなんですか??」
えーっと・・・ 何か 殴るの落ちてないかな?
死んだ犬の証ってなんだよ?
信頼の証だよ 信頼の証!
だいたい死んだか生きてるかぐらい見ればわかるだろ
死んでいるんだから 証もへったくれもないだろに・・・・
ようやく聞き間違えだとわかった彼女は
自分で言った言葉に 自分一人で大爆笑し
「沖縄では そういう言い回しがあるのかと思いました」と
ひととおり笑った後に真顔で言った
ちんすこう 投げつけてやろうかな・・・
イヤ 投げつけるのは サーターアンダーギーにしよう
アンダーギーのほうが 重さがある・・・・
だいたい 彼女は聞き間違えが普段でも多いのだ
「あの人 余命二か月なんだって」と誰かが話していた時も
「えーっ 嫁になって二か月なんですか??」
話の相手 92歳だぞ・・・・
しかもジーさんだし・・・
話 聞き間違えたにしろ 話の前後で想像しろよ・・・
彼女の人生は聞き間違えによってかなり変わってきたに違いない
介護の仕事も 聞き間違えでなった可能性がある
今の旦那さんとの結婚も 何かの聞き間違えの結果
結婚してしまった可能性が大きい
「ニヌファさん ニヌファさん 聞いてくださいよー
私の友達が こないだゴルフの投げっぱなしに行った時の話なんですけど・・・」
なにか悪い霊にでもとりつかれているのだろうか
お前それって 打ちっぱなしだろ・・・
投げっぱなしって 柔ちゃんじゃないんだから・・・
まあよしんば そんな施設あったにしろ
せめて 投げた後は起こしてあげてちょうだいよ
介護しているジーちゃん バーちゃんも
普段から あらぬ事を話しているので
逆に彼女だからこそ うまくバランスがとれているのかもしれない
まともに話をしているこっちがバカバカしく思える
そんな 昼休みのひと時であった。
2010年03月20日
★ホームの午後

「私の家は 昔からの庄屋でね
大きな庭に花がたくさん咲いていて
桜の木も庭にあってさ
桜の咲くころは庭でお花見ができたのよ
みんなで 餅つきもやったわ
私も餅つきをやらせてもらって
とっても楽しかったの
大きな蔵もあってね
かくれんぼとかしたんだけど
子供の私には 暗くてちょっと怖かったわ」
午後の日差しがカーテンの
隙間から差し込む居室で
あまり開かなくなった右目を細めながら
水分補給のために訪れた僕に
Iさんはそう話してくれた
リラックスするためにかけた童謡のCDが
彼女の子供の頃の記憶を呼び起こしたのだろうか
それとも午後のゆったりとした時間のせいだろうか
以前 僕は特養の老人ホームで働いていた
職場の人間関係が嫌になり
以前から希望していた有料老人ホームに就職した
入居者の数が少ない施設を選んだ
今の職場は33床しかないこじんまりとした施設だ
僕の職場は有料老人ホームの中では中堅クラスだと思う
それでも入所で500万円から 月々30万~50万ほどかかる
普通の家庭では払う事が出来ない料金だ
特養の老人ホームに比べ少しは人間らしい暮らしが出来る
自分で買い物に外出出来る者もいれば
状態や家族の意向で外に出れない者もいる
泣きながら家族に連れてこられる入居者もいる
誰だって自分の家が一番だ
老人ホームに喜んで入ってくる人間などいない
貧乏人にも金持ちにも 死は公平に訪れる
老人ホームでの余生は平均3年ほどだと聞く
彼らの時間はとても早く過ぎていく
昨日元気だった人間が 一ヶ月後には歩けなくなる
そんなことはざらにある
介護とは何かなどとくだらない話をする気はない
上司の言う都合のいい介護の理想論や
介護の現場に働いたことも無い人間の
綺麗ごとも僕は嫌いだ
現実は そこで笑い 泣き
自分がボケてきたことに混乱し 錯乱して
歩けなくなり やがて寝たきりになって
尿と便を漏らし 今が昼なのか夜なのかもわからず
やがて何もかもが分からなくなる
曇り空に時折差し込む日差しのように
記憶の断片が浮かんでは すぐに消えていく
「学校までは歩いて40分ほどかかったの
冬は教室にストーブがあって
とても暖かかったのよ
学校の帰りは お友達と歌を歌いながら帰ったの
楽しくて寒さも忘れちゃったのよ
暖かくなって庭でお友達と ままごとしてたら
風で桜の花びらがいっぱい降ってきてね
それはそれは綺麗だったのよ」
まるで違う世界を見ているような目で
天井を見上げながらIさんがそう話した
「僕も その庭の桜見てみたかったな・・・
きっと綺麗だったんでしょうね」
Iさんの居室の窓から見える中学校の
校舎の壁に伸びる夕暮れの影を見ながら
僕はそうつぶやいた
2010年03月12日
★ 宝物

以前 スポーツクラブでインストラクターをしていた
僕はマシンジムのチーフインストラクターだった
スタッフの出身校の体育系の学校から
生徒を2週間ほど実習生として
面倒見てくれないかと頼まれた
どのスポーツクラブでもよくある事だが
そのスポーツクラブに入社した
社員でもバイトでもない彼らは
忙しい現場では 正直邪魔者になってしまう
それは どのスポーツクラブでも同じだろう
ただ 初めて社会に出る若い子を
邪魔者として迎えるのは忍びなかった
社員やバイトの子達に話をして
できるだけ面倒を見てやろうという事になった
実習生は 男性と女性の2人だった
教科書では分からないトレーニングの基礎を教えたり
新人が入った時にするように
ヘトヘトになるまでトレーニングをさせ
どのマシンがどこに効くのか身を持って教えたり
メニューの作り方や フロントに立たせたり
インストラクターとしての会員さんとの
トークも実践で 叩き込んだ
エアロバイクをこいでいる会員さんを指さし
「あの人の今日の夕飯聞いてきて」と言うのだ
初めて話をする会員さんに
唐突に「今日の夕飯はなんですか?」と聞くバカはいない
よほど話こまないと そこまで聞く事は出来ない
それこそが狙いなのだ
インストラクターは運動の話をしていればいいなんて
思ってほしくなかったし
そんなインストラクターはなんの魅力も無いと思う
運動以外の話をするからこそ
信頼関係や なにより
その人の生活パターンが見えてくる
それを考慮してメニューを考えられるからだ
初めての経験で 彼らも大変だったと思うが
なにか一つでも得るものがあればと
そんな風に思ったのだ
実習の最終日 スタッフの一人が
「ニヌファさんが 今プールで監視してるんで
今日までのお礼を言ってきなさい」と言って
プールにいる僕の所に挨拶するように仕向けた
プールに挨拶にきた実習生の2人を
隠れていたスタッフとともに
プールの中に叩き込んだ(笑)
実習生はプールの中で
何事かと茫然としていたが
プールに集まったスタッフが拍手をしながら
「お疲れさん!」と笑いながら声をかけたので
ようやく事態が呑み込めたようだった
僕らなりの 荒っぽい最後の祝福だった
びしょ濡れの実習生の子が
泣き笑いで「ありがとうございました」と言ってくれた
それから何日かして 実習生の子から手紙をもらった
他のスポーツクラブで実習をした同級生の子達は
一日中 掃除をさせられて終わった事
それに比べて 自分達は
たくさんの事を教えてもらった
本当に ありがたかったと書かれていた
こんなにも会員さんとスタッフの関係が
密接なクラブは見た事がないとも
そして 手紙の最後には
「私は ニヌファさんのようなインストラクターに
なるのが夢です」と書いあった
その言葉は僕の一生の宝物となった
恥ずかしながら 実習生の子からもらった手紙は
今でも 大事にもっている
その後 そのスポーツクラブは
オーナーの多角経営が失敗し倒産した
スポーツクラブ最後の日
会員さんが集まってくれて
僕達に 拍手をしてくれた
スタッフ全員ボロ泣きだった
それから 僕はインストラクターの仕事を
二度とすることはなかった
手紙をくれた実習生の子が
今インストラクターをしているかどうかは
たいした問題ではない
ただあの時 あの瞬間に関わりあえた事
そして 彼らが僕達を見て
インストラクターになりたいと思ってくれた事
それこそが 僕の人生の宝物の一つだ
2010年03月10日
★炭酸文明

以前 買い物から帰って来た嫁が
「これ 好きかなーと思って買ってみたんだけど・・」
そう言ってペットボトルを取り出した
それが炭酸文明だった
以前 炭酸少年という炭酸を飲んでから
サイダーに目覚めたという記事を書いた事がある
二三度飲んだだけで その後姿を消してしまった
それからというもの サイダーと聞くと
飲まずにはいられない
サイダーと書いたキャップをかぶってもいい
色違いで欲しいくらいだ
地方炭酸に 季節物炭酸 キャラクター炭酸
そして人に飲ませるという主旨から外れた
製作者が 食品という域を超えてしまい
完全に人体実験と呼んでも過言ではない炭酸を
作り上げてしまったような バカ炭酸も
トライしてみたくなってしまった
炭酸文明ももれなく その一つである事に違いない
古代エジプトの絵や古代文字が書かれたボディーは
確実に 時代に乗っていない
半年もすれば「あ~そんな炭酸あったかも?」と
都市伝説のように語り継がれるのだろう
炭酸文明と書かれたラベルの横にある
「古代へGO!!!]の文字の意味が分からない
まず一口飲んでみると 昔ガラナという飲み物があったのだが
それにも似たテイスト その後に来るブドウの味
そしてそのあとに来るローヤルゼリーと
オロナミンCにも似たテイスト
「爽やかな五月のそよ風が吹く草原に寝転んで
土や草や花の香りに包まれながら
ウトウトとまどろんでいる
休日の午後のような味がします」
僕がソムリエの田崎真也ならそう表現したかもしれない
残念ながら僕はソムリエでも 少し頭の薄い
ワイン好きのおじさんでもない
凡人で小市民の僕に言えるのは
「なんだこれ?」としか言えない
まず飲んで一口目から否定で始まっているのに
二口目三口目からどうもおかしいと思わせる味
うまいとは言えないが なぜか気になる炭酸
小学校の頃からの友人で よく遊んでいて
一度も 女性として見たことがない子が
突然 気になり意識し始めたような
そんな 感覚にもにている
・・・これって・・・・・恋?
んな訳はないのである
ただの訳わかんない飲み物なだけだが
女性もミステリアスな女性は魅力的に見えるものだ
まあ 飲み物にミステリアスはねーだろ
むしろ食品としては致命的だろという声もあるが
もし まだ炭酸文明を発見できるのなら
まあそこはね 勇気を出して
ついでに小銭も出して飲んでみてよ
あり? なし? さてどっち
2010年03月03日
★炭酸界の異端児

さて今回も炭酸のお話です
炭酸界の異端児の巻~(ドラえもんの声で)
こんにちは 浅香光代です
やはり沖縄人として紹介しなければいけない炭酸
使命と言っても過言ではない炭酸に
ルートビアがありますねーハイ ルートビア出ました
以前もA&Wがらみで紹介したことがありますね
1919年にロイ・アレンとフランク・ライトが
カルフォルニア州のロディで、ルートビアスタンドを
開店したのがA&Wレストランの始まりです
1963年に、A&Wが沖縄に日本初の
ファーストフードを開店したんですなー
アレンとライトの頭文字でA&Wなんですが
子供だった僕らは 「あなたと私」の略じゃないかと
場末のスナックのような名称を想像してたんですね
アメリカの会社だっつーの!
完全に日本語の発想しか浮かばなかったんですね
そんなA&Wを沖縄人は親しみを込めて「エンダー」といいます
そのエンダーのメインともいえる飲み物が
ルートビアーなんですね
えっ? ビールでもないのに何でビアーなのかって?
じゃあ シーチキンはチキンじゃ無いのになんでチキンがつくの?
堪忍袋っていう袋スーパーで売ってるの見た事がないでしょ?
ほら! 世の中不思議なことだらけだ
だからルートビアーもおかしくないのだ
それはさておき A&Wは昔っから店内の他に
駐車場に駐車した車の横に
インターホン付きのメニューがあるんですね
そこで注文すると店員さんがやってきて
車のドアーに 上の写真のように取り付けてくれるんですね
僕のちっちゃい頃は店員さんがローラースケートで
「夢はローリン♪ ローリン♪」な感じで
運んできてくれたんですね アメリカンですね
さて そのルートビアーなんですが
ロイアレンが病気の友人を元気づける為に
作ったドリンクらしいんですね
きっとその病気の友人はこれを飲んで
死んでしまったに違いありません
初めてルートビアーを飲んだ僕の友人は
オロナインとドクターペッパーを混ぜたような味と
かなりの酷評ぶりでした
子供の頃からルートビアーを飲んでいる僕らには
まさに沖縄に帰った味なんですね
特に缶で飲むより エンダーのジョッキで飲むルートビアーこそ
ルートビアーの粗大ゴミ イヤ 醍醐味なんですね
あのエンダーのジョッキこそルートビアーを
飲むために作られたと言っても過言じゃありません
飲み物を入れるはずの器なのに
不必要に重いあのガラスのズッシリ感たまりません
一時いろんなメーカーのルートビアーを集めた事があります
ハワイとか海外旅行に行くと多く見られます
海外では みんな普通に飲まれているルートビアーですが
日本ではそのルートビアーの味の取っつきにくさゆえに
沖縄以外の県にエンダーが出ていけないんでしょうね
メインの商品が足を引っ張るという
前代未聞のハプニングなんですね
さて ここまでルートビアーの話しをしてきて
もう薄々 分かってきましたね?
そう ルートビアーを騙されたと思って飲んでみてください
騙されますから(笑)
いったいどんな味なのか知りたいはずです
この炭酸界の異端児のテイストを!
あいっ! 沖縄の人はみんな好きサー
あんたも飲んでみたらいいはずよー!!
もう 病みつきになるサー
2010年02月23日
★カッちゃん

以前 友人から聞いた話だが
父の日に その友人の母親が
「ねーお父さん 父の日だから どこか連れてってー!」と
新じがたいほどのポジティブな発言をして
「父の日って そんな日じゃねーだろ!」と
父親から突っ込まれたらしい
それはさておき 今回は嫁の父親カッちゃんの話しだ
カッちゃんは 1942年1月18日 北海道の北見に生まれた
昔 銀座の英○屋さんでスーツを作っていたらしい
その後 マンションなどの配管の仕事を始めた
人のいいカッちゃんは けっこう仕事を回してもらっていて
建築業が不況の今でも 途切れず仕事がある
初めて会った時もカッちゃんは 本当に気さくに話をしてくれた
照れた顔で僕に何度もビールを注いでくれた
実家では 嫁や嫁の母親に「お父さん なにしてんの!」と
いつも怒鳴られているカッちゃんだが
僕には カッちゃんが少年に見えるのだ
何事も 悪気なく思いついたまま行動してしまう
非常にナチュラルと言うか 天然というか・・・
以前 カッちゃんの仕事を手伝ったことがある
カッちゃんが 嬉しそうに現場の説明をしていたのだが
「ニヌファ君この階のこの鉄筋がさ あぁー!!」と叫んで
どう気付かないふりをしても気付いてしまうほど
大きな溝に 落っこちていった
「ここは天井が低いから気をつけて」と言いながら
自分の頭を激突してしまい 頭をかかえて座り込んだり
幸い怪我はなかったのだが そういった類の事が多く
よく今まで現場で大怪我をしなかったものだと関心する
嫁が子供の頃 町内会が仲がとても良くて
町内会で ディズニーランドに行ったり
雨が降ると 留守の人の家の干してあった洗濯物も
取りこんでくれるような 三丁目の夕日的な下町だったらしい
その町内会の運動会で 張り切ったカッちゃんは
リレーで爆走中に アキレス腱を切ってしまったらしい
アキレス腱が切れた事に気付かないカッちゃんは
自転車で病院に向かったらしいのだが
お医者さんから 「あんた自転車で来たの?!」と
ビックリされたらしい
余談ではあるが その運動会の日
ほぼ留守だった為 近所中空き巣に会うという
未曾有の大災難にあったらしいのだ
アキレス腱を切ったカッちゃんは
全治2ヶ月との医者の見解だった
ようやく完治したカッちゃんに 嫁が凧揚げをせがんだ
張りきったカッちゃんは 凧糸片手にまた爆走してしまい
再度 アキレス腱断裂という信じがたいハプニングに遭遇した
笑いの神様が カッちゃんには降りてくるのだと思う
やはり嫁が子供の頃の話だが 家族で群馬に旅行に行く途中
電車が駅に停車したとき 牛乳を買ってくると
カッちゃんが言いだし 売店に買いに向かったのだが
電車が動き出してしまい 「おとーさーん!」と
家族で 泣きながらカッちゃんを呼んだのだが
時すでに遅し 動き出した電車と
圧力鍋は 急には止めれないのだ
旅行途中にして 父親と行き別れるハメになったらしい
まさにバカ家族を 絵に描いたようなシュチュエーションだった
「団体行動ができないのよ!お父さんは!」嫁の口癖だ
僕と嫁の家族で旅行に行った時も 姿が見えなくなり
みんなで探し回っていると 近くのそば屋で一人
ちゃっかり ビールを飲みながらソバを食べていたカッチャん
出てくる料理に何でも 醤油をかけて食べるので
嫁の母親に「どんだけ 味分かんないのよ!」と
怒られていた カッちゃん
子供の頃から カッちゃんを知っている嫁は
自分の父親が そんなにユニークな人間だとは
僕に言われるまで 気付かなかったらしい
僕に言わせると 嫁も十分カッちゃんの血をひいているのだが
最後に 僕には忘れられないカッちゃんのエピソードがある
僕たちは 結婚式を宮古島で行ったのだが
結婚式の花束贈呈の時 カッちゃんは大泣きしながら
ゴツゴツした手で僕の手をギュッと握りしめると
「自慢の娘です よろしくお願いします」と言ってくれた
娘をもった今 僕にはカッちゃんの気持ちが
本当に 本当に 痛いほどわかるのだ。
2010年02月15日
★夢の国と現実

「ディズニーランドに 行きたいんだけど」
嫁が ゴーヤーチャンプルーの
ゴーヤーを箸でつまむ僕に
唐突にそう話しかけてきた
「琉美(りみ)に エレクトリカルパレードとか
見せてやりたいんだよね!
テレビでデズニーランドのコマーシャル見ても
けっこう嬉しそうだしさ」
「でも 俺のパスポート切れてんじゃねーかな?」
「あのね・・・ ディズニーランドって国じゃないよ・・」
ディズニーランド好きな方には申し訳ないのだが
僕は ミッキーをかわいいと思った事が
ただの一度もないのだ
まだスヌーピーなら可愛いと思うのだが
ディズニーランドやシーにも何度か言った事はある
あくまでテーマパークとしてだ
ミッキーに会いたい訳ではないのだ
どちらかと言うとUSJの方が楽しいと思うのだ
ディズニーランドに比べて ちょっとゆるい所が好きだ
それはさておき 嫁の強引な押しと
嫁の母親の孫のためなら
手を血に染めてもいいという
マフィア並みの強い意思により
ディズニーランドに 入国する事になってしまった
自分達だけの場合は 次はどれに乗るのか
必死で動き回ってけっこうヘトヘトになったものだが
琉美はまだ1歳と11ヶ月だ
乗れるアトラクションなんて決まっている
そうなると 別にとりたてて急ぐ必要がない
こんな風にのんびりと ディズニーランドを過ごすのは
初めての経験だったのだが 案外楽しかった
嫁の母親が 色々なキャラクターに出会うたびに
孫可愛さに目がくらみ 並んでいる人ごみを蹴散らし
むりやり キャラクターの横に入り込むと
孫と一緒に写真を撮らせるという
おばちゃん特有の図々しさで 嫁と僕をドン引きさせた
ピーターパンのアトラクションで
並んでいたインド人のような女の子たちが
琉美に手をふってくれたり 握手したりと
可愛がってくれた
その後 パレードの場所取りのため
嫁の母親が生垣のそばに陣取った
その間に僕と嫁は食べ物を買いに行ったのだが
帰ってくると 僕達の前のグループが
先ほど会ったインド人とおぼしきグループだった
みんなで琉美を抱き上げてて
可愛い 可愛いと褒めてくれた
もともと琉美も 嫁の血を引いているのか
ものおじしないタイプなのだ
平気でその女の子達の膝の上に座って
一緒にパレードを見始めた
その子達のグループに何人か
日本人の女性達も一緒だった
年配の女性が話してくれたのだが
NPO法人として活動しているらしく
その子達は インド人ではなくネパール人だった
ネパールで学校を建てたり 貧しい子達のために
色々 活動しているらしいのだ
ネパールでは貧困で子供を売ったり
学校に行きたいと子供が思っても
働き手がなくなると困るので
学校に行かせたがらない親も多いらしい
読み書きもできないため
働いても給料を誤魔化されたりするケースも
多いのだと 教えてくれた
ディズニーランドに来た この子達は
学校に通うには遠すぎる村にいるらしく
その為 寮生活をして
授業の後も 1日7~8時間も
猛勉強しているらしいのだ
日本に来た子達は その学校の成績上位の何人かで
ご褒美に 日本に1週間ほど滞在して
色々見学し 今日はディズニーランドに来たらしいのだ
その子達の村には電気も水道もなく
一ヶ月100円もあれば 十分に暮らしていけるのだという
「ホントに 素直ないい子ばかりなんですよ
見学に行った所でも 一生懸命メモをとって
説明した方が こんなに熱心な生徒さんは初めてだと言って
感激してたんですよ・・・」
そう年配の女性が教えてくれた
琉美を膝に抱き パレードに手をふって
歓声をあげるその子達の瞳の
なんと綺麗なことだろうか
帰りに その女の子達が何度も琉美にキスしてくれたり
抱きついては なごりおしんでくれた
「リミ カワイイ!」とかたことの日本語で言ってくれた
ネパールから来たその子達の目に
この日本はどう映ったのだろうか?
きらびやかで 物にあふれ
彼女達の国とは比べものにならない
豊かな まさに夢の国に思えたのだろうか?
それとも 便利さという言葉と引き換えに
無くしてしまった 他人との関係性と
自分の事しか考えない身勝手さと
ストレスと疲労と怒りに溢れた
冷たくも 病んだ都会に映ったのだろうか?
ディズニーランドの帰りのハイウェイバスで
疲れて寝てしまった娘を抱きながら
窓に 現れては消えていくネオンサインに
僕は そう思わずにはいられなかった。
2010年02月07日
★ 誕生日

7月18日はニヌファが生きていれば3歳の誕生日だ
ニヌファにローストビーフと
ケーキを買ってやった
ニヌファの二歳の誕生日にも
ローストビーフを買ってやったのだが
秒殺でたべてしまった 味もへったくれも無い
多分 今回も秒殺だったに違いない(笑)
ニヌファが亡くなって1年2ヶ月たった
僕たちは今でもニヌファの事を考えない日はない
そして時々泣く事もある
彼は僕たちにとって特別な存在だったから
それも仕方がない事だが
先日もニヌファの公園仲間に久しぶりに会った
ニヌファが亡くなった事を聞くと
驚き 涙を流してくれた
人生という 長く そして短い時間は
悲しみを消すことはできはしないが
何度も何度も その出来事を考えさせ
自分自身を責めたり 裁いたりを繰り返し
そして 悲しみも 幸せな思い出もすべて
自分自身の一部なのだと気付かせる
幸せな思い出が心にあるように
悲しみも 心にいる権利がある
何故なら それも僕自身だからだ
ニヌファが亡くなった時 仕事場での僕は
本当にボロボロだった
介護施設なのに 僕はただ仕事をこなすだけで
入居者と話をすることもできなかった
午後の日差しが差し込むリビングで
入居者の女性が「ニヌファさん いつも冗談ばかり言って
笑わせるのにいったいどうしちゃったの?
何かあったの?」と
車椅子で近くに来ると 僕を見上げながら言った
僕は たたんでいたバスタオルで顔をかくすと
その場に座り込み 声をもらしながら
子供みたいに泣き出してしまった
ニヌファが亡くなったという事を話す事すらできなかった
ニヌファとの幸せな思い出も ニヌファを亡くした悲しみも
僕が呼吸をするように それらも呼吸をしている
それらすべてが僕と共に生きているからだ
「天国で オバーにパーティーの時にかぶる
三角の帽子かぶらされて サーターアンダーギーと
豚肉料理いっぱい出されて たくさん食べなさいねー!
なんて言われて 迷惑そうな顔してるんじゃない?」と
嫁が話し その光景が目に浮かび
2人で 大笑いしてしまった
あれから 色々な事があったけど
僕たちは 今でもニヌファと一緒だ
そして これからもずっと
ニヌファ 三歳の誕生日おめでとう

2010年02月01日
★ 秘密の場所

子供の頃の話しだ
家から20分ほどの林に 一人で出かけた
拾った木の枝を振りまわしながら
林の中を散策していると とてもいい場所を発見した
茂みの中に 直径2~3メートルほどの
外からは分からない 円状に開けた場所で
秘密基地にするには もってこいの場所だった
昔から その林には何度も遊びに来ているが
その場所には 気付かなかった
そこに何かあるわけではないのだ
広すぎず狭すぎず 暗くも明るくも無く
うまく言えないのだが 落ち着ける場所なのに
なんだか 胸躍るような感じなのだ
とても居心地が良くて 気に入ってしまった
寝っ転がって どんな秘密基地を作ろうか
ワクワクしながら 想像した
一人きりで そこで過ごしていたのに
何故だか 楽しかった
日が暮れ始めたので 明日また出直すことにした
翌日 仲の良い友人とその場所に出かけたのだが
何度 探してもその場所が見つからないのだ
そんなに広い林ではない 探せないはずはない
道も間違えていないし 周りの景色も同じだ
なのに絶対あるはずの場所がみつからないのだ
その後 何度も探しに出かけたのだが
結局 見つけることは出来なかった
子供の頃の そのおかしな思い出話を嫁に話すと
「私も子供の頃にあった あった」と
嫁が目を輝かせながら言った
やはり その場所は二度と見つからなかったらしい
僕だけの思い込み話しではなかったようだ
それにしても なんとも不思議だ
どうして同じ場所が 見つからなかったのだろうか?
居心地の良かった秘密のあの場所は
そもそも本当にあったのだろうか?
それとも 子供にしか見つけることのできない
時の隙間のような場所だったのだろうか
今でもまだ あの林の奥にあって
子供達に見つかるのを 待っているのかもしれない
大人になった今でも また行ってみたい気がする
でもそれは かなわぬ夢なのだろう
なぜならそこは 子供だけに許された
たった一度っきりの 秘密の場所なのだから
2010年01月21日
★ オバー

10月の末に 急遽沖縄に行くことになった
オバーが 入院したとの知らせを聞いたからだ
血圧が高く 薬を飲んでいたのだが
誰もいない時に 家で倒れたのだ
「もう意識もないし 医者に聞いたら
手術をするのも 高齢で無理だし
治る見込みはないらしい」と
オヤジからの電話だった
姉達と共に 沖縄の病院へ向かった
病院は サトウキビ畑に囲まれた
海の見える場所にあった
病室へ入ると そこにオバーがいた
ベッドに横たわり 酸素呼吸器が付けられていた
嫁に オバーの写真を撮って帰ると約束したのだが
とても 顔を写す気になどなれなかった
それほど 痛々しい姿だった
僕と姉達は オバーの手を握り締め
「オバー 今来たよ! 来るのが遅くなってゴメンね」と
苦しそうに息をするオバーに 話しかけた
「病院では 死なない」とのオバーの遺言で
呼吸器を外し 家に連れ帰って死なせてやろうと
親戚一同で決めたのだと オヤジから聞かされた
それが 一番いい事だと親父に言った
苦しむオバーを 病院の機械につなぎとめ
ただ 生かし続ける事なんか絶対させたくない
なにより オバーがそれを嫌い遺言を残したのだ
「オバーは 自分が死んだ時のために
着る服も 葬式の写真も葬式での役割分担も
すべて子供たちに全部伝えてあるよー
葬式の費用も これでやりなさいとお金も準備しておって
子供達にお金を使わせないようにしてあるさー
香典も 出してはいけないと言っておったさー
オバーは凄いよー」とオフクロが言った
「倒れる 二日前に急に髪を染めるからといって
美容院に行って 髪も黒くしよったよー
オバーは 自分が死ぬの知っていたんだねー」とも
「島の人が みんな オバーに世話になったから
見舞いにきてくれたさー
これでオバーは本当に神様になるねーと
言っておったよー」と親戚のおばさんが言った
オバーの 手を握り締めていると涙が溢れてきた
写真は オバーの手を撮ったものだ
よく見て欲しい
この手は 100年間を生き抜いてきた手だ
激しい戦争を生き抜き
貧しい中も子供達を育て 日々の料理をつくり
朝早くから夜中まで働き
島の人達の為に ユタとして
神や先祖に祈り続けた手だ
そして 小さかった僕を抱き上げ
畑に行く オジーと僕におにぎりを握り
祭りの夜に 僕を連れて行ってくれた手で
ずっと僕達を 目にみえぬものから
守り続けてくれた手だ
僕は この手以上に美しい手を見たことがない
この手以上に ぬくもりを感じる手などない
そして この手以上に安心できる手を僕は知らない
握り締めた手を 僕はとても離す気になれなかった
オバーの温もりを いつまでも忘れないように
自分の手に 覚えこませたかったからだ
「オバー これが終わったら横浜に遊びに来てね
琉美にも会ってもらいたいからさ
みんなで待ってるからね。」
オバーの耳元に 僕は話しかけた
オバーは この世界と違う世界の両方を生きてきた
オバーが この世界からいなくなっても
僕を守ってくれる 先祖の一人になるのだ
オバーの命の火が 親父に受け継がれ
その火は僕の中に そして琉美へと受け継がれている
そうやって 祖先のたくさんの命と共に
僕らは 生きている
だから一人なんかじゃない
祖先たちと ともに生きているんだ
凡人で なんの能力もない僕には
オバーのように 見えないものを見ることや
話をする事はできない
オバーと共に生きている事は知っている
ただ この世界でオバーの姿を
見ることが出来なくなるのが とても悲しいのだ
一番上の姉が 我慢できずに
「いやだー! 絶対いやー!
オバーを どこにも行かせない!
オバーがいなくなるなんて いやだー!」
そう叫んで オバーにしがみついて号泣した
その場の全員が 涙を止めることができなかった
泣いている姉に おばさんが
「オバーは昔から 自分は100歳まで生きて
それから あの世に行くと言っておったよ
もう思い残す事は なにもないし
オジーにも 会えるから
自分が 死んだら みんな三線と踊りで
祝いなさいと言っとったさー
だから そんなに悲しんだらオバーが困るよー
心配させんで行かせて あげんとねー」言った
姉が離婚して 二人の子供をつれて
オバーに 会いに来たとき
「あんたの事を 思うと オバーは
チム(こころ)が 痛いよー
これを 持っていきなさい」といって
茶色い封筒に お金を入れて手渡した
「オバー もうお金をもらう歳じゃないから
いらないよー」と姉が言ったのだが
「旅に お金があっても邪魔にはならんさー」と言って
無理やり わたしてくれたらしい
クシャクシャの千円札ばかりで 一万円入っていた
オバーが一生懸命貯めていたのが よく分かるお金だった
帰りに家の玄関のまえで オバーが大声で手を振りながら
「あんたの為に 神様にお祈りしておくから
なにも心配せんで いいからねー」と泣きながら叫んでいたらしい
離婚して色々な事で 心細かった姉は
涙が止まらなかったといっていた
その後 とてもいい人と姉は再婚できた
僕が子供の頃 オバーが草を叩いて乾かし
それで サトウキビをしばる縄をつくっていた
叩いている 台の形を良く見ると
錆びた 爆弾だった
もちろん火薬など抜いてあるものだ
「オバー これ爆弾じゃないの?」そう聞くと
「これは 戦争で人を殺すために 作られたものだけど
オバーが こうやって使ってあげてるわけさー
これで 初めて役に立つものになったサー」
子供ながらに オバーすごいと思ったもんだった
僕達は どんなに頑張ったって
オバーほどの 人生を送ることは出来ない
たとえ遠くに 離れていようと
いつも 心のどこかにオバーがいて
僕の 心のよりどころになっていた
オバーと話したとき かけてもらった言葉に
どれほど 救われたり安心したりしたことか
オバーは つねづね自分が死んだら
あの世に行って 神様になって
僕達の事を 守ってあげるからねと言っていた
僕は何一つオバーに してやれなかった
オバーはたくさんの 愛情と救いを僕にくれたのに
僕は 泣く事しかできない
呼吸器を 外すと一時間で死ぬと医者は言ったが
オバーは4日間も生きていた
とても 寂しくなるけど
これは お別れじゃないから
サヨナラは言わないよ
オバー 今までありがとう
そしてこれからも ずっと見守っていてね
2010年01月16日
★失恋の思い出

20代前半の頃だ 当時付き合っていた彼女がいた
互いに好き同士で付き合ったはずなのに
会うといつもケンカばかりだった
2人とも恋愛に対して子供だったのだろう
ケンカして何日も電話しない日があった
今みたいに携帯もメールもない時代だ
意地を張り合っているので仲直りも楽ではなかった
彼女から連絡があり よく行く居酒屋の店員に
告白されたのだという内容だった
ケンカしていた僕への当てつけもあったのだろう
どうするか迷っていると言った
「好きにすればいい」そう言って僕は電話を切った
実際 その時の僕は彼女の事は好きだったのだが
自分への愛を確かめるための彼女のバカバカしいゲームに
何度も付き合わされ ほとほと疲れきっていた
その後 深夜に無言電話が2~3度あった
多分 彼女からだったと思う
電話したものの結局話せずに切ったのだろう
しばらくして彼女から電話があった
例の告白された彼と付き合う事になったのだと
僕は「そうか」とだけ答えた
近じか部屋に残っている彼女の荷物を
取りに行きたいとも言った
正直 心は冷静ではなかった
でもこの先彼女とやっていく自信もなかった
だから僕は仲直りの言葉を一言も言わなかった
部屋に荷物を取りに来た彼女が
新しい連絡先のメモをわたしていった
部屋で一人しばらくそのメモをながめていたが
その電話番号にかけてしまわないように
すぐに破り捨てた
彼女と別れることに迷いはない
でも僕はロボットではない
考えて出した結論と感情は別だ
別れましょう ハイそうですかと
その日からすぐに心が整理できるものではない
彼女と別れてから 僕は毎日友人達と飲みあかし
友人達の都合がつかなかった時は
レンタルビデオ屋で何本も映画のビデオを借り
なるたけ 彼女の事を考えないようにした
夜 自分の部屋に一人でいるのが怖かった
何とか寝れたとしても 明け方にふと目覚めてしまうと
それからは最悪だった 悶々として
朝まで寝れなくなってしまう
そんな弱い自分が大嫌いだった
もっと強くなりたいと願った
そんな夜を何ヶ月か過ごした
それから1年後 深夜彼女から突然電話があった
もう一度やり直したいと言われた
過去の恋愛の幽霊と会った そんな気分だった
僕は 彼女の申し出を断った
その後 彼女が田舎に帰ったと風の噂に聞いた
それから僕は 何人かと付き合った
傷つけられた事もあるし 傷つけたこともある
当時の幼かった恋愛観を 笑い話にすることも出来る
あの時望んだように強くもなったし
恋愛に対する考え方も変わった
でも だからどうだと言うのだろう
沢山恋愛しているから良くて
していないからダメという訳でもない
きっと理屈ではないからだ
僕は恋愛に関して語れるほどの人間ではない
ただ 失恋した時にどうしても助言しろと言われたら
僕が言える事はただ一つ
よく食べて よく寝なさい
ただ それだけだ(笑)
2010年01月06日
★兄弟の時間

元日に僕は 千葉の姉の家に行くために
嫁と娘とともに電車に乗っていた
僕は3人兄弟で上に姉が2人いる
一番上の姉は 結婚して三重県に住んでいた
旦那の実家の隣に家を建て暮らしていたのだが
旦那の両親と妹に 日々嫌がらせをうけ
何年も我慢していたのだが
ついに嫌になって千葉に引っ越してきたのだ
千葉には2番目の姉も住んでいた
二番目の姉は 沖縄本島で暮らしていたのだが
旦那さんの事業の失敗で借金をしてしまい
仕事の多い東京で働くため
何年も前に千葉に家族で引っ越していた
兄弟3人が しかも正月に集まるのはここ10年以上ない
しかもオフクロも 一番目の姉の引っ越しを手伝うため
千葉の姉の家に来ていたのだ
家族が正月に常に集まる方には当たり前なのだろうが
僕らのように 島育ちで都会に出て来た者には
結婚や仕事などの理由で
正月に全員が都合よく集まることは
なかなか出来なかった
姉の家には2番目の姉の家族も来ていて
かなりにぎわっていた
姉達が故郷の料理を作ってくれていて
家の中はいい匂いがしていた
久しぶりに家族が集まり 小さい頃の話
沖縄の話などで盛り上がった
暖かな家で 家族が料理をかこみ
何時間もワイワイと話は続いた
離れていた時間に お互い色々あったのだが
その濃密な時間には距離など感じさせなかった
大人達が話している周りを子供たちが走り回り
姉の子供たちが娘の琉美とずっと遊んでくれた
子供の頃に見た よくある光景と同じだった
故郷には故郷のおだやかな時間が流れている
でも同じ心を持つ家族が集まる事で
故郷ではない場所でも 故郷と同じ時間が流れる
僕達は大人になり 年齢も見た目も変わったが
むしろ子供の頃よりも お互いを近くに感じる
姉達の思いやりが 口に運ぶ料理に
暖かなストーブに そして家中に感じられる
久しぶりに とてもいい正月を過ごした
帰りに一番目の姉が料理をタッパに入れて渡してくれた
お互い近くになったのだから
これからは 何度も会う事ができると
姉が嬉しそうに言った
外はすでに暗くなっていた
寒さが身にしみる
手を振る姉達と別れ 僕らは電車に乗った
娘が 遊び疲れて寝てしまった
正月ですいている電車のシートに腰かけ
外の景色を車窓から眺めた
まだ先ほどの姉達と過ごした
時間の暖かさが感じられる
それはお土産のタッパに入った料理の温かみと共に
僕の心を暖め続けてくれていた
2009年12月17日
★ 悪者同盟

小学校の頃 ラッキーという名の犬を飼っていた
一年生のとき 近所の診療所のおねーさんが
スピッツに子供が生まれたので
一匹あげてもいいと言ってくれた
オヤジもオフクロも犬は好きではなかったのだが
兄弟全員で必死に頼み込み
なんとか 飼える事になった
僕は三人兄弟で 姉が2人の末っ子長男だ
念願の弟ができて 嬉しくてたまらなかった
「かーちゃん 犬来た?」
学校から走って帰るとオフクロにたずねた
「応接間にいるよー」とオフクロに言われ
見ると ソファーの下に真っ白でフワフワの仔犬が寝ていた
そっと抱き上げると 僕の指をペロペロなめた
小学生の僕の片手に乗る大きさだった
姉たちと相談して 名前はラッキーに決まった
当時から かなりベタな名前だった
診療所のおねーさんに何を食べさせたらいいか尋ねたところ
「ミカンの絞り汁」と予想外の返事が返ってきた
「ミカンのしぼり汁って 昆虫じゃないんだから・・・」
今思い返しても 残念なおねーさんだった
その後ラッキーは すくすく育ち 悪がきの僕の立派な子分になった
よく家を脱走したりした
2日ほど帰ってこなかった日もある
帰ってきたと思ったら 血だらけで
他の犬と戦った傷が体のあちこちにあった
ある時 家の下の原っぱを通りかかると
ラッキーが 6匹ほどの犬と決闘している真っ最中だった
かなり怖かったが 弟分を見捨てる訳にいかない
棒を振り回し「ウワー!」と大声で怒鳴りながら
戦いの真っ只中に飛び込んでいった
運良く 犬たちは驚いて逃げ出してくれたのだが
とうのラッキーも一緒に逃げ出す始末だった
僕は チョッと漏らした
かつおぶし工場からラッキーが
かつおぶしをくわえて出てきたのに出くわした事がる
なぜか僕まで一緒になって逃げだした
いとこの子に あまり好きじゃない女の子がいた
いつもツンケンして 気に食わなかったのだ
その子が 用事で僕の家に荷物を持ってくると
オフクロから聞いた僕は
二階の窓からラッキーと一緒に覗いていた
すると遠くから その子がやってくるのが見えた
「ラッキー あいつ噛んじゃえ わかった?噛むんだぞ!」
その子を指差し僕はラッキーに言った
ほんの冗談のつもりだったのだが
あっという間に ラッキーは家を飛び出していくと
ワンワン吼えながら一直線にその子の元へ駆け出していき
スカートに噛み付いて 引っ張り回した
「キャー! 助けてー!」そう叫ぶと
荷物を放り出して 大声で泣き始めた
声を聞きつけて 姉たちが家から飛び出し
必死にラッキーを引き離した
僕はラッキーを引き離すと 密かにラッキーを褒めた
僕とラッキーの悪者同盟の絆は 強固なものだった
5年ほど前に沖縄に帰った時 ラッキーの話が出た
なぜ あの時ラッキーが襲ったのか謎だったらしく
真相を知った姉達は大爆笑になった
僕は知らなかったのだが あの後
その子をラッキーが2度ほど襲ったらしく
もちろん怪我はなかったのだが それ以来
大の犬嫌いになったらしい
不謹慎で申し訳ないが 僕の言った事を
ずーっと忘れなかったんだと思うと
なんだかニヤニヤしてしまった 悪者同盟健在だったのだ
小学校6年の頃だ ラッキーの具合が悪くなり
どんどん元気がなくなっていった
注射も打ったのだが 効き目はなく
寝てばかりいる日々が続いた
ある日 僕が学校から帰ってくると
ラッキーの姿が見えなかった
オフクロに尋ねると「神様のところにいったさー」と答えた
寝ていたラッキーが突然起き上がり
オフクロの手をぺロッとなめると
5~6歩よたよた歩き出して ばったり倒れて
それっきりだったそうだ
犬嫌いだったオフクロが泣きながら
「かーちゃん もう犬は飼わないからね!」と言った
僕は弟と子分の両方を失った
姉達と一緒にワンワン泣いた事を覚えている
今でも帰省すると 実家に錆びたラッキーのチェーンと
姉がセロテープに貼り付けた ラッキーの毛が残っている
僕とラッキーの悪者同盟は永遠だ
2009年12月12日
★うしおとミケ

8~9年ほど前のことだ
住んでいたアパートの近くに公園があった
その公園には 野良猫達が住んでいた
公園の北側に住んでいたのが うしおだった
牛みたいな柄をしているので 僕はそう名付けた
お世辞にも かわいいとは呼べない仏頂面に
低い声で「ニャー」でなく「ニャッ!」と鳴くのだ
うしおは この公園のボスだった
気に入った人間にしか近づかず
僕も うしおをなでるまでに ずいぶん時間がかかった
公園の猫達に 餌を毎日もってくるおばさんがいた
来ると 砂場をスコップで掘り起こし
野良猫達のフンを片付け エサの食べ残しも片付けていた
そのおばさんが教えてくれたのだが
公園に たまに子猫が捨てられるらしいのだが
その子猫達を うしおが母親代わりに育てたらしいのだ
うしお 雌だったのか・・・・・
子猫を育てている時のうしおは 本当の母親のようで
一度 子猫の近くを散歩中のハスキー犬が通りかかったのだが
子猫が襲われると思ったうしおは
ハスキー犬の顔に飛びついて
ハスキー犬を撃退してしまったらしいのだ
公園に来た猫が うしおに挑戦し
木の上までうしおに追っかけられていったのを見たことがある
うしおは何度も そんな猫達を撃退していた
だから うしおは公園のボスなのだ
そんなうしおの姿を 公園から見なくなった
公園に来るおばさんに聞いたところ
具合が悪くなって 病院に連れていったのだが
結局 亡くなってしまったらしいのだ
野良ネコは2~3年で亡くなる子が多いと
病院の先生が言っていたらしい
公園の植木の下に うしおを埋めたと教えてくれた
僕は うしおの墓に手を合わせ
公園のボスの死を 心から残念に思った
それから 何ヶ月かして同じ場所に
三毛猫のミケが住み始めた
ミケは おっとりとした猫だった
一度 ハトの群れの中にいるミケを見たことがある
餌を食べるハト達が ミケのいる場所まで移動してきたのだが
何故だか ミケを敵だとも思わず
おそらく ネコだとも思っていなかったに違いない
公園の木やベンチと同じものだと思っていたのだろうか
ハトの群れの真ん中で ちょこんと座っているミケの姿は
吹き出してしまうほど おかしな光景だった
よく 公園の出口の車止めの前に座っていて
朝 会社に向かう人達がその可愛い姿に
頭をなでている姿を見かけた
ある日 公園でおばさんにミケが死んだと教えられた
公園のすぐ横に 川が流れているのだが
そこに 手足を縛られて投げ込まれ
溺れて亡くなったミケを発見したらしい
「本当に 許せないよ! 絶対犯人見つけるよ!」
おばさんは 涙ぐみながら悔しそうにそう言った
うしおのように 人間に警戒して近づかないネコの方が
長生きできるし 野良猫はそうであるべきなのだろう
世の中は いい人間ばかりではない
それは 僕にもよくわかる
でも 亡くなったあの愛らしいミケに
「お前は 人間になつくから殺されたのだ
人間になつく お前が悪い」と
そんな言葉を 誰が言えるだろうか
そんなの 絶対におかしい
ミケを殺した 頭のおかしい人間を憎むことこそあれ
僕には ミケにそんな言葉を掛ける事なんかできない
しばらくして ミケが亡くなった川に架かった橋の
らんかんの側の 階段の壁に
「あんな可愛い猫を殺すなんて 信じられない
本当に許せません ミケちゃんが亡くなって
寂しいです」と書かれた紙が貼ってあって
ネコの餌が供えてあった
またしばらくして その橋を通ると
壁中にミケへの追悼の言葉が書かれた
たくさんの張り紙が貼ってあった
小学生の子が書いたと思われる手紙から
文面から 年配の人だと思われる張り紙など
たくさんの人達の思いがつづられた張り紙と
たくさんのお供え物が置いてあった
それを僕が見ていると 50代くらいと思しき女性が
泣きながら 張り紙の一つ一つを読んでいた
僕と目が合うと「本当に 可愛い子だったのに・・・
仕事に行く時 いつも公園の出口のとこにいて・・・
いったい誰が・・」と声を詰まらせていた
たくさんの人達に 色んな名前で呼ばれながら
ミケは僕が思うよりも ずっと多くの人に愛されていた
公園を通るたびに ミケがよく座っていた場所に
ふと目がいってしまったものだ
それから僕は引っ越してしまったので
その公園に行くことはなくなった
その公園に まだ野良ネコ達がいるのか
もう居なくなってしまったのかは 分からないが
時々 うしおとミケの事を思い出すことがある
それは 悲しい思い出ではない
仏頂面の低い声で「ニャッ!」と短く鳴くうしおと
のんびりと 草むらに寝転ぶミケの姿だ
2009年12月03日
★Big Wave

僕は コストコが好きだ
ご存じの方も多いと思うが
コストコはアメリカからきた
会員制の巨大なスーパーみたいな所だ
ただ普通のスーパーと違い売ってる量というか
サイズが日本のよりはるかに大きいのだ
食料品や電気製品 生活雑貨に洋服などを
扱う倉庫のようなところだとイメージしてもらいたい
アメリカの製品を安く扱っていて
お店をやっている人もよく買いに来る
そこで食べることもできるので 行くといつも食べるのだが
ホットドッグとお変わり自由の
Lサイズの大きさのドリンクがついて250円だ
でっかいピザもホールで1500円と安い
さて 今回の話しはコストコについてではないのだ
今 思いっきり膝カックンになった方
ここまでコストコをフューチャーしといてなんだそれと
怒りで振り上げた拳を どうかおさめて欲しい
その拳は政治不信と 注文してもなかなか出来ない
手際の悪い ほか弁屋のおばちゃんに落としていただいて
そのコストコから帰る時の話しなのだが
嫁と歩いていると なんだか少しお腹が痛くなった
じき収まるだろうと 甘くみていたのが悪かった
突然 腹痛の波が襲いかかって来た
やばい ウ〇チが漏れそうな痛みだ・・・
あまりの痛みに その場に立ちつくしてしまった
「どうしたの?」という嫁の問いかけに
「ウ〇チ 漏れそう・・」と息も絶え絶えに言うと
「ちょっと! 早くトイレ探さなきゃ この辺にトイレないかしら
ちょっと 早く歩いて!」と嫁が言った
「早くなんか歩けるかーボケー!」
この状況で早く歩くことは死を意味するからねー!
必死に我慢しながら 痛みの波が過ぎるのを待った
これまでの人生が 走馬灯のように過ぎてゆく
「ニヌファ ついにウ〇チ漏らす!」という
新聞の見出しのような字が 頭をかすめていく
初恋の思い出も 楽しかった遠足も
いままで生きてきた この何十年間もが
ついに 今日でおしまいだ・・・・
明日から 日陰の人生を歩いて行くのだ
一生 ウ〇チを漏らしたという 負け犬のレッテルをはられるのだ
もう 我慢できないから漏らしちゃおうかな?
イヤイヤイヤ 何言っちゃってるの チビッコか!
社会人だろ! ウ〇チ漏らしていいってどういう事?
死ぬ気になって我慢しろ
人間死ぬ気になれば なんでも出来るぞ
でもウ〇チは 自分の意思とは関係ないし・・
世の中には どうにもならない事があるんだ
そんな絶望と戦いながらも 痛みの波を必死に我慢した
少し収まって来たので チャンスとばかりに
速足で トイレのある場所を探して歩き回った
しばらく歩くと 偶然にも公園が見つかった
神は俺を見離さなかった
もうここまで来たら 漏らすぐらいなら
公園で野糞してやるもんね
誰かに見られたって 関係ないもんね
ウ〇チ漏らしてズボン ビチビチにして帰るぐらいなら
いつだって野糞してやるさ あーやっちゃうもんね
などと開き直っていると 先に行った嫁が走って戻ってくると
「トイレあったよ トイレ!」と叫んだ
限界まで来ていても トイレが近くにあると聞くと
そこまでどうにか たどり着こうと思ってしまうのだ
そこが動物とは違う 文明人のプライドなのだろうか
トイレまであと50メートルという所で
また痛みの波が 押し寄せて来た
立ち止って必死にこらえた
必死に耐えながらも 俺はやれる 頑張れる
我慢できるぞ お前の肛門は鉄でできている
お前はやれば出来る子だと 自分自身を励まし続けた
僕が女性なら とっくに出産していただろう
今なら 五つ子だって産めそうだ
痛みの波が 収まったのをみはからい
トイレまで猛ダッシュした
大人になってから これほどピュアな思いで走った事はない
箱根駅伝の学生よりも 熱かった
痛みの波と波の 間隔が短くなっている
呼吸法はヒッヒッフーだっけ フッフッヒーだっけか?
先生 生まれそうです!
ようやくトイレのドアに手を掛けた時
また痛みの波が襲いかかって来た
今度の波は かなりのビッグウェイブだ
トイレに入ると ベルトを外す手が震えていた
ズボンを脱ぐ動作が スローモーションに見える
頑張れ お前は便意の波を乗り切るサーファーだ
このビッグウェーブを乗り切れる たった一人の男
ボードを手に浜辺に出れば 誰もがみんな噂する
伝説のレジェンドサーファーだ
額に油汗を浮かべながらも 自分にそう言い聞かせた
お尻が 便座にくっつく10センチくらい前から
もう出ていたと思う それくらい切迫していた
全てが終わった後の安堵感は 言葉にできない
トイレの中で 僕はしばらく放心状態だった
トイレの中で正坐していたかもしれない
悟りを開いたと言っても過言ではない
何かに到達したに違いない それほどの状態だった
現実的には トイレに到達しただけだったが・・・
トイレを出ると「さっ 帰ろうか!」と外で待つ嫁に
爽やかな5月の風のようなフレッシュな笑顔で声を掛けた
何かを成し遂げた者にしか感じられない充実感
伝説の大波から生還した たった一人の男
それが この僕レジェンドサーファーだ
トイレから出て来た僕が なんだか少し大きく見えたと
後日談で嫁が そう語っていた