★遠い日の逗子
学生の頃 造園のバイトをしていたことがある
切られた木の枝や葉っぱの掃除
たい肥や土をはこんだり
穴を掘ったり植木を運んだりした
その仕事場にIさんという男性がいた
Iさんはこの道ウン十年の職人で
年の頃は70歳くらいだったろうか
昔 農家をやっていたらしい
なぜこの仕事を始めたのかと尋ねると
「俺はこれしか能がねーからよ」と答えた
Iさんと逗子の閑静な住宅街に
仕事で行った時のことだ
Iさんは僕の事を下の名前で
ここではニヌさんと書かせてもらうが
そんな風に呼んでいた
現場は古いが落ち着きのある住宅だった
出迎えてくれたその家の住人は
70~80歳くらいの女性で
きっちりとした身なりをしていた
挨拶をすませ僕たちは仕事を始めた
「よおっ!ニヌさん
この土を向こうまで運んでくれよ」やら
「ニヌさん ここにこんくらいの間隔で
穴を掘ってってくれよ」という
Iさんの指示にしたがい
僕はせっせと働いた
10時になり「ニヌさん 一服すんべ」と
Iさんが横浜っ子なまりの声をかけた
「お茶が入りましたんで・・」と
その家の住人の女性が
お茶の入った急須と茶碗が2つ
和菓子の入ったお菓子入れと
セブンスターと100円ライターを
縁側に置き正座してニコニコと
微笑みかけていた
「こりゃ どうも 奥さんすみません」と
Iさんが答え「私はタバコをのみませんが
若いもんがタバコをのみますんで
遠慮なく いただきます
よおっ ニヌさんゴチになんなよ」と
僕に声をかけた
「すいません いただきます」
ぺこりと頭を下げると
軍手をとりズボンについた土を払うと
僕はお茶とお菓子をいただいた
煙を気にして2人から少し離れた場所で
お茶を飲みながらタバコを吸った
5月の爽やかな風が庭の木々の葉をゆらし
タバコの煙を空に運んでいった
遠くで鳥の鳴き声が聞こえる
「この頃は逗子のこのあたりも
ずいぶん変わりましたな」
「ええ 本当に 昔はこの辺は畑が多くて・・・」
Iさんと女性のゆったりとした会話を聞きながら
僕はかぶっていた帽子を取ると
5月の心地よい日の光を浴びた
まるでこの場所の時間が
止まってしまったかのような
そんな錯覚におちいった
15分の休憩のはずが30分になった
僕は3本ほどタバコをすった
お昼はその女性がかつ丼をとってくれて
お茶とたばこを出してくれた
僕は帽子を顔に乗せ
庭で寝転んで昼寝をしていたが
Iさんは女性と話がはずんでいた
3時にもお茶とお菓子とたばこが出た
夕方 仕事を終え女性に挨拶をすると
「普段は一人でおりますので
話し相手もいないんですが
今日はとても楽しゅうございました
長話をして仕事の邪魔を
しませんでしたでしょうか?
庭も綺麗にしていただいて
ありがとうございます」と
頭を下げながら言った
「とんでもない 奥さん
こちらこそ色々お気遣いいただきまして
ありがとうございました」と
Iさんが照れた様子で頭を下げた
僕はくわえタバコで
軽トラックの荷台に道具を乗せながら
その様子を眺めていた
「あの人すごいですね 一服の時
お菓子が出る家はあったけど
タバコまで出してくれて
お昼まで出してくれて凄いっスね」と
帰りの車の中で言うと
「ニヌさん 昔はよ
ああいう事は当たり前だったんだよ
でもよ この頃じゃそんな家は
なくなっちまったけどな
あんなしゃんとした人に
会うのも珍しいよな・・・」
「でもIさんと話してた時
あの人楽しそうでしたね」
「な~に 年寄り同士 昔話に
花が咲いたんだよ ただそれだけの事よ」
軽トラックのハンドルを握る
日に焼けたIさんの顔が
少し嬉しそうに見えた
僕は帰りがけにいただいたセブンスターを
作業着の胸ポケットから出すと
Iさんに声をかけ車の窓を開けると
タバコを一本すった
なんだかいつもより うまい気がする
あたりは暗くなり始めていた
家路へと向かう車の列が
ポツポツと暗くなった道路を
オレンジ色に灯していった
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