★100の悪戯
Aさんは長野県の生まれの100歳の女性だ
今の施設に働き始めて1年と4ヶ月ほどたつが
働き始めたころからベッドに寝たきりだった
ある程度の認知症はあるのだが
普通の認知症の人とは一線をきしていた
なんと言うか一本筋が通っているというか
頑固とかでなく凛としていると言ったほうがいいだろうか
僕が排泄介助に入ったり食事の介助をした後も
かならず「ありがとう」といってくれた
当たり前に感じるかもしれないが
認知症がありそこそこの年齢だと
そんな言葉は聞けないのが普通だ
仕事を終えて帰る際Aさんに
「Aさん 俺帰るね また明日ね」と声をかけると
「気をつけてお帰り」と小さな声で言ってくれた
Aさんには65歳だが女優顔負けの美しい娘さんがいる
彼女はテニスをしていて真っ黒に日焼けしているが
これほど美しい65歳を僕は見たことがない
美しいだけでなく礼儀正しく腰も低い
この親にしてこの娘ありだ
Aさんの居室で食事の介助をしていた時
僕は誰にも言えない悩みというか
心の秘密をAさんに打ち明けたことがある
Aさんが持っている雰囲気が僕にそうさせたのか
分からないのだが僕は自分の気持ちを話してしまった
何かを期待して話したわけではない
相談でもなくただ話したのだ
Aさんは静かに僕の話を聞いていたが
ぽつりとある言葉を言ってくれた
その言葉に僕は救われ涙しそうになった
亡くなった愛犬ニヌファの事も話したことがある
今だにニヌファの事を思うと
とても辛くなる気持ちを話した
ベッドで僕の話を聞いてくれたAさんは
「可哀そうな事をしたね 大事だったね」と
ただそれだけ言ってくれた
僕がAさんにその話をしたのは
支えになってくれる杖が欲しかったわけでも
救いとなる言葉を求めていたわけでもない
色々なしがらみや思惑もなく
人として 本当に人として接したかった
そして彼女の言葉や気持ちそして接し方は
薄っぺらな慰めの言葉とは違い 僕の心を打った
彼女の人間性と自然体でくったくのない
そういう雰囲気もあるのかもしれない
元々Aさんはおしゃべりなタイプでもないし
おしゃべりできる状態でもない
僕の冗談をニコニコして聞いて
一言二言小さな声で答えるくらいだ
そういえば以前Aさんの部屋の
ナースコールが鳴ったことがある
Aさんはナースコールを鳴らすことはまずないのだ
とにかく僕はあわてて電話を取り
「Aさん どうしたの!」と言うと
電話のむこうからAさんの小さな声で
「いたずら・・・」と聞こえた
しばらく呆然としていた僕は吹き出してしまった
普段冗談やいたずらばかりする僕に
Aさんからの可愛い仕返しだった
僕の同僚の女性が「実は恋愛の相談を
Aさんにしたことがあるの
その時言われた言葉に私泣いちゃったの」と言った
僕と同じように誰にも言えないことを
Aさんに言うスタッフはいたようだ
そんなAさんが突然食事をとらなくなった
娘さんも心配して施設に寝泊まりした
ずっとAさんを見てきた僕には
Aさんは自分の意思で死のうとしているのが分かった
そのくらいの年齢になると色んな病気もあるが
介護の仕事をしてきた僕の経験から言うと
人は気持ちでなくなるものだ
Aさんは脈もとるのがむずかしくなり
体もげっそり痩せ細った
意識ももうろうとしているAさんを
娘さんが着替えさせてほしいと僕に頼んできた
僕はAさんの服を脱がせ排泄介助をおこない
痩せ細ったAさんの体の清拭を行った
服を着替えさせると僕はAさんに
「Aさん もういっちゃうのか?」と声をかけた
Aさんは小さく肩で息をしているだけだった
その日の仕事が終わり家に帰ると
夜遅くに主任から電話があった
「ニヌファちゃん Aさん亡くなったよ・・・」
翌日早くに会社に行くとAさんの遺体と対面した
Aさんの娘さんとスタッフの女性が泣きながら
僕を迎えてくれた
「ニヌファちゃん見て 安らかな顔だよ」
本当にやすらかな顔だった
入居者やスタッフが部屋を訪れAさんに手を合わせた
そしてAさんの遺体は霊柩車にのせられ
スタッフや入居者が玄関で見送る中
僕の秘密も持ったままAさんは去って行った
ステーションに戻り何人かの同僚と
ぼんやり椅子に座っていると
前回記事に書いた僕の上司のFさんが
「Aさん 行っちゃったね・・・」と言った
その場にいたスッタフ全員が泣いた
僕はみんなに背を向けたまま声を殺し泣いた
この仕事を昨日今日始めたわけではない
たくさんの年寄がなくなっていくのを僕は見てきた
どちらかというと楽になってよかったという
安堵感のほうが多く泣く事はそうそうない
でもAさんは別格だった
「母に会いに いつもこの施設に来ていたので
ニヌファさんやほかのスタッフに会えなくなるのが
私 とても寂しいの・・」とAさんの娘さんが
涙ながらに言ってくれた
家族じゃないけど他人でもないおかしな気持ち
この仕事をしているとよく感じる
Aさんが居なくなった部屋の扉を開け
部屋の中に入ると僕はぼんやりと部屋を見渡した
シーツもはがされたベッドと荷物がまだ半分残っていた
このベッドに寝たきりのまま
Aさんはずっと何を思っていたのだろうか?
「気を付けてお帰り・・」Aさんの声がした気がした
僕はまた泣いてしまった
「レディーはおいとまする時間を心得ているものよ」
いつか見た映画でそんなセリフがあった
Aさんもおいとまする時間を心得ていたのだろう
「ニヌファちゃん!」泣いている僕の後ろで
突然 同僚の女性スタッフの声がした
「お願いAさんの部屋を開けないで
あたし仕事できなくなっちゃうから・・・」
ボロボロと涙をながしながら彼女はそう言った
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