★命どぅ宝

★ニヌファ

2011年04月24日 17:45























僕の母親方の父とその弟は


戦争中にフィリピンの近くの


とある島に兵隊とした送られたそうだ


食糧を探して祖父達は二そうの船に乗り込み


河を下っているときに突然


戦闘機が飛んでくるのを発見した


「飛行機だ 川に飛び込め!!」と


仲間が叫ぶと同時に戦闘機が撃ってきた


飛び込む瞬間に祖父は横っ腹を撃たれた


戦闘機の銃弾が飛び交う中


着ていた服を脱ぐと腹にあいた穴に


血を止めるために服をつめ


祖父は必死に岸まで泳いだ


生き残った数人の仲間と岸にたどり着いた時


祖父は瀕死の状態だった


仲間が祖父を岸に引っ張り上げ


「しっかりしろ!」と声をかけた


「弟は・・弟はどうした?」と


息も絶え絶えに祖父が言うと


「神様の所に行ったさー」と


同じ沖縄の島の出身者が言った


「そうか・・」と祖父は言うと


「俺には子供がたくさんいる・・


その子供たちがきっと骨を拾いに来てくれる


だから弟と同じ所に埋めてくれ・・・」


そう言って祖父は息絶えた


仲間は祖父と祖父の弟の亡骸を同じ場所に埋めた


祖母は6人の子供をかかえ


女手一人で大変苦労したそうだ


知り合いの家の納屋に住まわせてもらい


地面にむしろをひいたような所で暮らした


子供だった僕の母親が夜ふと目を覚ますと


子供達に明日食べさせる物が無いと


祖母が泣いていた


翌日 母は早起きし山や海で食糧を探し


またいろんな畑も回り仕事を手伝い


食べ物をもらった


今でも母は食べ物を簡単に捨てることはできない


家族に暖かなごはんを食べさせ


自分は昨日の残りの冷ごはんを食べることがよくある


高校生だった頃その姿を見て僕が


「かーちゃん 冷ごはんなんか捨てて


炊き立てのご飯があるんだから 


それを食べればいいさー」と言うと


「ニヌファ 食べ物は粗末にしたらいかんよー


大事にせんといかんよー」と言っていた


その頃の僕は祖父達の戦争の話も


戦後 祖母と母たちが苦労して


生きてきたことも知らなかった


母も母の祖母もつらかった頃の話をしなかった


僕が結婚式の為に沖縄に帰った時に


姉が「ニヌファ あんた知ってる?」


そういって以前母から聞いた話だと言って


宮古島の前浜海岸を見渡せる


栗間島の展望台に行ったとき


祖父達が亡くなった時の話


祖母と母達が苦労して生きてきた話を


海を眺めながら二番目の姉が話してくれた


「おばあちゃん達兄弟が お金をためて


その島にオジー達の骨を拾いに行ったってー


そしたら 大きい台風があってさー


その骨を埋めた場所もやられて


骨は全部流されて 見つからんかったってさー」


展望台には何人かの観光客がいたにもかかわらず


僕は号泣してしまった


そして何も知らずに今まで


のうのうと生きてきた自分を恥じた


僕の祖先のオジーやオバー達が


必死に生きてきた事


そのおかげで僕たちが今ここにいられる事


それは僕達の誇りであり大切な話だ


母の祖母は何年も前にガンで亡くなった


あの頃の苦労がたたって


その後は体が弱かったそうだ


とてもやさしいオバーだった


今でも玄関先で笑顔で手を振っている


祖母の姿を覚えている


僕たちは一人で生きている訳ではない


たくさんの祖先たちの命と共に生きている


だから一人ぼっちなんかじゃない


今 大きな地震で沢山の方々が亡くなった


生き残った方々の気持ちは


僕などには想像もできないものだろう


子供や子孫の為にも 


なにより自分自身のためにも


生き抜いて欲しいと僕は願う


なにも知りもしないくせにと思われるだろうが


心からそう願っている


母の兄が 昨年亡くなったが


書道が得意なおじさんだった


そのおじさんが僕の結婚式の時に


自分が書いた字を掛け軸にして送ってくれた


「命どぅ宝」という字だ


沖縄の言葉で命こそが宝


生きている事こそが宝という意味だ


激しい沖縄戦を経験した沖縄では


よくつかわれる言葉だ


その言葉の意味を 祖父や祖母達の事を


娘が大きくなったら話してやりたいと思う


僕の素晴らしいオジーやオバー達の話を





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